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人生フルーツ [映画批評]

映画「人生フルーツ」を観る。高蔵寺団地や東京の杉並区の阿佐谷団地などを設計した、都市計画家津幡修一さんと奥さん英子さんとの郊外での生活を描いた作品である。
 その暮らしぶりは、スローフードであり、サステイナブルであり、自然と共生しており、アンチ消費主義であり、そして何より高齢者であっても自立している。この郊外における田園生活は素晴らしい。一つの理想の暮らし方といってもいいであろうし、それはまさにエベネザー・ハワードが田園都市論で提示した「都市と農村の結婚」とでもいうべき美しいライフスタイルである。その暮らしを自らが設計した高蔵寺団地で実現させている津幡夫妻は流石であるし、この暮らしと、実際の日本の郊外のニュータウンの「貧相な」暮らしとを対比すると、その違いとに愕然とさせられる。
 私は以前、日本において郊外住宅地がアメリカのように不動産価値を得ることができなかったのは、郊外のライフスタイルという商品を価値あるものとして人々に訴えることができなかったからだ、と書いたことがある(「米国で始まった郊外の再生」Future of Rear Esatate, 2003 Autumn)。しかし、この映画で描かれている津幡夫妻の暮らしは、まさにこの人々が理想としたくなるような郊外生活を自らが設計に携わった高蔵寺ニュータウンで実現させているし、具体化させようとすれば出来ることを知らされて、まさにショックを受けた。
 私は大学の教員になる以前、コンサルタント会社で働いていたが、直属の上司が「郊外論」で名を知られた三浦展氏であり、彼の舌鋒鋭い郊外批判に強い影響を受けてきた。また、90年代前半にアメリカの大学で都市デザインを学んだのだが、その当時、ニュー・アーバニズムが論説を席捲しており、その郊外批判にも随分と影響を受けた。
 したがって、郊外は人間らしく住むには適していない環境であると今まで、思っていたのだが、そのような考えが浅薄であったことが、この映画、というか津幡夫妻の暮らしぶりによって思い知らされることになる。彼らの暮らしは、溢れるほどの「豊かさ」に満ちている。そして、その「豊かさ」は大都市ではとても得られることができない。
 それでは、なぜ、多くの人達はこのような「豊かさ」を郊外において実現できないのであろうか。それは、やはり、その開発のあり方に問題があったと思うのである。住宅開発をすることで、少しでもお金を儲けようといったインセンティブが優先され、そこで暮らす人が素晴らしい生活を送るうえでの舞台、環境といった考えが二の次になってしまったことが原因ではないだろうか。少なくとも津幡氏のように、そのような「豊かな」生活環境を設計できる優秀な設計者がいたのである。それなのに、そのような設計が二の次になり、効率性や採算性といったことが優先されてしまったのではないだろうか。広告の中だけの「豊かさ」だけを求めて住宅を購入し、消費者然として自ら「豊かさ」を創造しようとしなかった住民にも問題があるのかもしれない。津幡夫妻の「豊かさ」をつくりだしているのは、間違いなく、この夫妻であるということも映画は見事に描写している。
 東京では、彼がマスタープラン設計に携わった阿佐ヶ谷住宅が、最近、再開発のために壊された。阿佐ヶ谷住宅のその住宅の質の高さは、私も指摘してきたが、それに関しては、東京大学の大月教授が鋭く指摘している。ちなみに、郊外論批判の三浦展氏も阿佐ヶ谷住宅は絶賛している。そのような素晴らしい住宅でさせ壊され、野村不動産のマンションが建ってしまうのである。阿佐ヶ谷住宅は素晴らしい公共性を有していた。現在は、それらの公共性は失われてしまっている。そのような公共性を犠牲にする開発を進めさせる行政にも問題があるだろう。
 「人生フルーツ」に心を揺さぶられたならば、今でもまだ多少残っている、これら「豊かな都市空間・生活空間」を維持することに力を入れるべきではないだろうか。立石駅の南口の商店街などや、下北沢の駅前(これはもうほとんど臨終状態かもしれないが)などの開発も、そのような「豊かさ」を破壊する都市開発行為であるだろう。
 観る者に感動を与える素晴らしい映画作品であると思うが、同時に、津幡夫妻の生き様は、現在の我々の置かれている状況を鋭く批判しているとも捉えられる。

下記HP参照。
http://life-is-fruity.com

IMG_9263.jpg
(この素晴らしい公共性を有した「素晴らしい生活環境」の阿佐ヶ谷住宅も結局、壊されてしまった)

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