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元会社を訪れ、いろいろと考えさせられた [その他]

 13年前に在籍した会社に、もう10年ぶりぐらいで訪れる。委託研究を主な仕事とする民間のシンクタンクである。一緒に仕事をした後輩なども50歳を越えている。多くが既に研究業務の一線から退き、営業や企画などの仕事をしている。しかし、彼らは極めて研究者として優秀であった。というか、むしろ研究は優秀であったが営業が苦手であったがゆえに、成績が今ひとつで出世できなかったというところがあったかとも思う。私より研究者として優秀であったと私が思っている人材が、得意な研究ではなく営業をしている(営業に関しては実は私の方が優秀であったとは思う)というのは、なんかしっくりこない、というかもったいないことをしているな、と思う。
 一方で、彼らの優秀な研究能力に劣等感を持っているといってもよい私は、大学で勝手な研究をやらせてもらっている。文科省の研究費も二件ももらい、税金でも研究させてもらっているという贅沢を享受している。本も出せているし、自主製作ではあるがCDも出すことができた。お金にはいつも困っているし、常に渇いているが、それでも、この会社に残って送っていたかもしれない人生と比べると、ずっと有意義であるとは思う。
 さて、しかし、ここで私が言いたいことは、会社を辞めて正解だということを自慢したい訳ではなく、私は将来を先読みしたから、今の状況を獲得できた、ということだ。将来を読む、というのは私が専門とする都市計画をつくるうえでの極めて重要な要件であるが、自分の置かれた状況が今後、どうなるか、ということを予測することは重要であろう。私が在籍した会社では、私が尊敬する先輩達が冷や飯を食わされ、私があまり尊敬しないような人が出世をしていた。私の仕事のやり方では、そう遠くない将来に冷や飯を食わされることは予測できた。というか、私が出世することはあり得ないとも思った。いや、出世しなくても、好きな研究を続けられればよい。研究をする機会をも奪われる可能性がある、という状況が私を転職へと向かわせたのである。そして、その判断の基準は、「この会社で働いていて、今日、死んだとしても悔やまずにいられるか」というものである。私は、絶対悔やむであろうと思い、転職をし、転職をしたことには露一つも後悔していない。
 それを、私の周辺にいた私が一目を置いていた同僚達の現状を改めて知り、確認させられた。
 既存の環境をぶちこわし、新たな環境に置かれることは大きなリスクを伴う。しかし、変化を拒み、現状に固執することも大きなリスクを伴う。
 私の父親は、私の転職に大きな難色を示して反対したが、もう大人の私は完璧に無視した。父親が間違っていたと確信を持っていたからである。ただし、多くの人の場合は、私のように親の言うことを無視するのにも抵抗があるかもしれない。しかし、父親の人生を肯定的に捉えられるのなら別だが、そのように捉えられないのであれば聞く必要はないと思う。
 そして、現在の私が考えている将来は、残りの人生が決して長くはない、ということだ。人は必ず死ぬ。このことを肝に銘じて、残りの与えられた時間を有意義に過ごさなくてはいけないな、と強く考えている。本当はもっと若い時からこのような意識を持てればよかったのだが、結局、いつかはどうにかなるだろう、と高をくくってしまった。後悔先に立たず、とはよく言われるが、死ぬ瞬間になるべく後悔を少なくしたいものであると思う。
 ということを久々に訪れた元会社が改めて気づかせてくれた。会社での時間は無駄とまではいかないがもったいなかった。それがもったいなかったということを自覚し、同じことを繰り返さないということが、現在の私にとって重要なことである。

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