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先斗町は外国人観光客で溢れていた [グローバルな問題]

久しぶりに京都の先斗町を訪れた。飲み屋街としては、絶妙な空間スケール。これこそ、日本が誇る都市空間美、と前々から思っており、この空間をアメリカの都市デザイナーとかにみせたら、みんな涙を流して素晴らしいと感激する、というようなことを主張したりもしていたのだが、いつのまにか、アメリカ人をはじめとする外国人に発見されてしまい、外国人だらけになっていた。10年前は、そんなことはなく、外国人でも本当の「通」くらいしか訪れていなかったと思う。随分と変わったものである。築地市場もそうだが、外国人に随分と日本のよいところが発見され、しっかりと評価されるようになってきている気がする。例えば、浅草より下北沢、六本木より吉祥寺、明治神宮より高尾山といった具合である。こういう日本のよさが発見され、観光地化するのは、観光客を増やすには非常にいいことだと思う。それに、よさを知ると、日本好きも増えることとなるし、日本をしっかりと理解しようと思う外国人も増える。そういう気持ちは日本を敬うというか、一目置くことになるので、国策としても賢明だと考える。

しかし、その結果、先斗町のコンテンツ、すなわち飲み屋や料理屋は魅力をちょっと失っているような気がしない訳でもない。なんと河原町から入ってすぐのところにキャバクラまであった。なぜ、先斗町にキャバクラがなくてはいけないのか。あってもいいが、派手でけばい看板を出す必要はないだろう。ここらへんは景観条例でどうにかならないのか。これは観光地としてみても、大きなマイナスである。キャバクラという日本のある意味で観光資源になりうるコンテンツを外国人にアピールするという戦略はありかもしれない。しかし、それが先斗町にあることは大いなるミスマッチである。いや、業務内容という意味ではそれほどミスマッチではないかもしれないが、景観的にミスマッチなのである。あえて先斗町に出店する必然性はないであろう。他の店舗も、どうも10年前にはあった先斗町のアイデンティティを発露させるような店は少なくなっているような気がする。一歩、裏に入ると相変わらず、雰囲気のある居酒屋はあるが、面的な広がりをもった先斗町らしさは減衰しているような印象を受けた。地元の人達はあまり先斗町には飲みに行かなくなっているのではないか。そういう気がする。私が入ったのは、「まんざら亭」というようないかにも京都らしい、謙っていて相手を見下す、的なネーミングがなされた店であった。ここは、そこそこ料理も美味しく、名前通りまんざらではなく、東京の水準は大きくクリアしていたが、京都の尋常でなく美味しい居酒屋の基準を考えると、特別な店ではなかった。とはいえ、適当に入った店にしては、さすが京都という感じであり、先斗町が観光地化してもしっかり商売しているな、という印象を受けた。この店は、比較的若いサラリーマン風の客が賑わっていたので入ったのだが、ドイツ人の観光客も入ってきた。注文するのに困っていて、結局ビールばかり注文しており、ビールは数少ない日本よりドイツが美味しいものなので、日本酒を勧めようかと思ったのだが、あまり歓迎されないような気がしてやめた。とはいえ、彼らはこの店での時間を楽しめたのではない、と思う。日本の居酒屋文化は、間違いなく「アルコールを安く美味しく飲む」という点に関しては世界一であると思われるし、それをこの先斗町という都市空間で体験できるのは、素晴らしい旅行の思い出になると思われるからである。とはいえ、こういうところまで観光地化しているのは、私自身地元ではないにも関わらず、ちょっと寂しいものがある。別に自分が行くわけではないのだが、神楽坂とかが観光地化した時に覚えた寂しさと似たようなものを感じる。といいつつ、京都はしたたかだから、他に新しいそのような都市空間をつくりだしているのであろうが。

話は前に戻るが、このように日本の「隠された」よさを発信し、観光地化している一方で、政治家や役人達は、外国人を感動させるだけのヒューマン・スケールでミックスド・ユースの魅力ある下北沢とかに道路を通して破壊しようとする愚策を採って、外国人を落胆させたりもしている。したがって、観光客を増やそうとしつつも、その貴重な資源を壊すことを並行してやっている訳である。なんか馬鹿げている。前回、コメントをした鞆の浦もそうである。鞆の浦に変な橋をつくりさえしなければ、そこは日本にとって極めて貴重な観光資源になる。橋をつくったら、その観光資源としての魅力は減殺する。福山市長は、世界遺産級であるなら、橋ができた後に申請すればいい、とほざいているそうだが、恐ろしい妄言である。

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