ダナンの空港でトランクを持ち忘れるという失態を犯す [地球探訪記]
早朝便でハノイからダナンに着く。バッゲージ・クレイムでトランクを取ったけど、その後、なぜかトランクをそこに置いたままで空港を出てタクシーを拾ってホテルに着いて、トランクがないことに気づいた。その時点では、タクシーを斡旋するおっさんにトランクを渡したのだけれど、おっさんがトランクに入れ忘れたのだろうと思っていた。そこで、タクシーのおばさん運転手に空港に戻ってもらい、探してもらった。おばさん運転手は警官などにも話をしてくれた。警官を含めて、おばさん運転手も、タクシーを斡旋するおっさんも英語がしゃべれなかったが、スマホに入っているソフトの翻訳機能を駆使して話をした。
警官は防犯カメラをチェックしてくれたら、なんと、トランクを持たずに空港から出ている自分が写っていた。というか、なんでトランクを持たないで移動できたかが自分でも分からなく、自己不信に陥ったが、トランクはどうもバッゲージ・クレイムのところにある確率が高いことが分かった。そこで、バッゲージ・クレイムのところに入ろうとすると、警備員に入れないと言われる。しょうがないので警官のいるところに戻り、一緒に来てもらうようにする。そこで警官に説明してもらうと、警備員は私は入れないが、代わりにバッゲージ・クレイムのところに行ってもらい、ベトナム航空の職員に私のトランクを持ってきてもらった。そこで、無事にトランクを手に入れることができたのだが、私はこれまで50カ国以上は旅していて、結構、治安の悪いところも行っているのだが、実は、盗難に遭ったのはデュッセルドルフ中央駅で夜行列車を待っていた時と、学生時代のオーストラリア旅行とホーチミンの三回だけである。特にホーチミンはなぜか大勢のおばちゃんに取り囲まれて慌てていたら、カメラバックからレンズを取られたという集団的なスリ事件に遭遇している。したがって、ベトナムでは他国と比べても、スリとかに気をつけなくてはと注意しているのだが、100%自分のミスでトランクを忘れるとは、本当に情けない。とはいえ、半分以上諦めていたのだが、見事、取り戻すことができてそういう意味ではありがたい。特に、タクシーのおばさん運転手や、空港の人達が警官を含めてとても親切だったのはちょっと驚きだ。アメリカだったら、決してこうはならなかっただろうと思う。ベトナムの人達の情に触れて、それは嬉しくて有り難かった。
警官は防犯カメラをチェックしてくれたら、なんと、トランクを持たずに空港から出ている自分が写っていた。というか、なんでトランクを持たないで移動できたかが自分でも分からなく、自己不信に陥ったが、トランクはどうもバッゲージ・クレイムのところにある確率が高いことが分かった。そこで、バッゲージ・クレイムのところに入ろうとすると、警備員に入れないと言われる。しょうがないので警官のいるところに戻り、一緒に来てもらうようにする。そこで警官に説明してもらうと、警備員は私は入れないが、代わりにバッゲージ・クレイムのところに行ってもらい、ベトナム航空の職員に私のトランクを持ってきてもらった。そこで、無事にトランクを手に入れることができたのだが、私はこれまで50カ国以上は旅していて、結構、治安の悪いところも行っているのだが、実は、盗難に遭ったのはデュッセルドルフ中央駅で夜行列車を待っていた時と、学生時代のオーストラリア旅行とホーチミンの三回だけである。特にホーチミンはなぜか大勢のおばちゃんに取り囲まれて慌てていたら、カメラバックからレンズを取られたという集団的なスリ事件に遭遇している。したがって、ベトナムでは他国と比べても、スリとかに気をつけなくてはと注意しているのだが、100%自分のミスでトランクを忘れるとは、本当に情けない。とはいえ、半分以上諦めていたのだが、見事、取り戻すことができてそういう意味ではありがたい。特に、タクシーのおばさん運転手や、空港の人達が警官を含めてとても親切だったのはちょっと驚きだ。アメリカだったら、決してこうはならなかっただろうと思う。ベトナムの人達の情に触れて、それは嬉しくて有り難かった。
タグ:ダナン空港
ハノイに来てアホなタクシーにストレスを覚える [地球探訪記]
ハノイに来た。ベトナムはホーチミンには二回ほど行ったことがあるが、ハノイは初めてだ。二回ほど来たが、二回ともまだ会社員時代の時だったから20年以上も前の話である。まず、ハノイの国際空港がとても近代的だったので驚いた。随分と、前回のベトナム訪問からベトナムも発展したのかなという印象を受ける。ホテルは空港のそばのを予約したつもりだったが、どうも3キロメートルは離れている。3キロの夜道は日本でも歩きたくない。ということで、タクシーで行くことにする。
ベトナムのタクシーは20年前の感覚だと油断できない。空港でそのまま拾うとろくなことが起きない予感がするし、もう22時を回っているので、そういうトラブルは勘弁だ。ということで、空港のトラベル・センターのようなところに手配してもらい前払いのタクシーに乗ることにした。割高だが、保険のようなものだ。
ということで、タクシーに乗ってホテルに向かったのだが、このタクシー運転手は酷かった。まず、全然、違うホテルに連れて行って、「ここだ」と言う。3キロどころか300メートルも走っていない。こちらは、またグーグル・マップで武装しているので、「全然、違う」といってグーグル・マップを示す。さて、ここで多くの日本人はこれで問題が解決したのだろうと思うだろうが、そうは問屋が卸さない。というのは、こちらのタクシー運転手は地図が読めない。ということを、私は若い時にクアラルンプールのタクシー運転手に都市の地図を書かせた研究をしたことがあるので知っているのだ。その調査から30年ぐらいは経つが、やはり彼も地図は読めなかった。したがって、Uターンして真っ直ぐ、と英語で説明するのだが、当然、英語は通じないので、身振り手振りで教える。この運転手はあまり納得できなかったようで、やたら電話をしたのだが、なんかホテルの名前は通じたので、どうにかたどり着くことができた。結構、ストレスを覚えて、怒りをぶつけたいのを我慢できた。まあ、怒るとこちらもダメージを受けるので。
さて、ホテルはなんか場末のラブホテルのようなところだった。クーラーもなく、なんだかなあ、という感じである。
ベトナムのタクシーは20年前の感覚だと油断できない。空港でそのまま拾うとろくなことが起きない予感がするし、もう22時を回っているので、そういうトラブルは勘弁だ。ということで、空港のトラベル・センターのようなところに手配してもらい前払いのタクシーに乗ることにした。割高だが、保険のようなものだ。
ということで、タクシーに乗ってホテルに向かったのだが、このタクシー運転手は酷かった。まず、全然、違うホテルに連れて行って、「ここだ」と言う。3キロどころか300メートルも走っていない。こちらは、またグーグル・マップで武装しているので、「全然、違う」といってグーグル・マップを示す。さて、ここで多くの日本人はこれで問題が解決したのだろうと思うだろうが、そうは問屋が卸さない。というのは、こちらのタクシー運転手は地図が読めない。ということを、私は若い時にクアラルンプールのタクシー運転手に都市の地図を書かせた研究をしたことがあるので知っているのだ。その調査から30年ぐらいは経つが、やはり彼も地図は読めなかった。したがって、Uターンして真っ直ぐ、と英語で説明するのだが、当然、英語は通じないので、身振り手振りで教える。この運転手はあまり納得できなかったようで、やたら電話をしたのだが、なんかホテルの名前は通じたので、どうにかたどり着くことができた。結構、ストレスを覚えて、怒りをぶつけたいのを我慢できた。まあ、怒るとこちらもダメージを受けるので。
さて、ホテルはなんか場末のラブホテルのようなところだった。クーラーもなく、なんだかなあ、という感じである。
メキシコ・シティのタクシーとウーバーだと4倍ぐらいの料金差がある [地球探訪記]
メキシコ・シティに来た。国際空港からコヨアカンのホテルまでタクシーで行った。もう空港に着いたのが2時頃で、公共交通という選択肢もなかったからだが、空港のタクシー会社でコヨアカンまで連れて行ってくれ、と言うと料金は650ペソだと言う。この遅い時間だし、50ペソほどチップで払ったので700ペソかかった。1800円ぐらいだ。
帰国する時も同じホテルから空港までタクシーを呼んでくれ、とホテルの人に頼むとウーバーを呼んでくれた。その値段は157ペソであった。チップを3ペソ払ってくれ、と言われる。ウーバーは確かに普通の自動車であったが、まあタクシーと基本的なサービスは同じである。ただ、このウーバーは、クレジット・カードは使えずに現金のみであった。帰りは夕方のラッシュ時だったので時間は随分とかかったが、料金は最初の提示どおり157ペソであった。随分と安上がりだ。コインをお釣りでもらっても邪魔なだけなので200ペソで残りはチップとしてあげておいた。157ペソと650ペソ。同じ距離でほぼ同じサービスなのに4倍も違う。まあ、英語がほとんど通じないので空港で自分でウーバーを呼ぶのはなかなか治安がよくないメキシコやブラジルでは厳しいかもしれないが、ホテルとかで現地の人に交渉してもらうのであればウーバーの方がずっと便利だな、と思った次第である。
帰国する時も同じホテルから空港までタクシーを呼んでくれ、とホテルの人に頼むとウーバーを呼んでくれた。その値段は157ペソであった。チップを3ペソ払ってくれ、と言われる。ウーバーは確かに普通の自動車であったが、まあタクシーと基本的なサービスは同じである。ただ、このウーバーは、クレジット・カードは使えずに現金のみであった。帰りは夕方のラッシュ時だったので時間は随分とかかったが、料金は最初の提示どおり157ペソであった。随分と安上がりだ。コインをお釣りでもらっても邪魔なだけなので200ペソで残りはチップとしてあげておいた。157ペソと650ペソ。同じ距離でほぼ同じサービスなのに4倍も違う。まあ、英語がほとんど通じないので空港で自分でウーバーを呼ぶのはなかなか治安がよくないメキシコやブラジルでは厳しいかもしれないが、ホテルとかで現地の人に交渉してもらうのであればウーバーの方がずっと便利だな、と思った次第である。
タグ:メキシコ・シティ
久しぶりに成田空港の全日空での国際カウンターを利用したら、あまりのサービスの劣化に驚いた [地球探訪記]
ブラジルに行くので久しぶりに成田空港発の国際線を利用した。昨年も二回ほど海外に行っているが、両方とも羽田であった。利用したのは全日空である。ブラジルまではアメリカ経由である。カウンターでチェックインをする。「ESTAかVISAのどちらで入国するのか」と聞かれたので「ESTA」と回答すると、「ESTAが登録されていない」と言ってくる。いや、そんな筈はない、と言ってコンピュータを取りだして、ESTAからの返信メールを見せると、「最近、ESTAの偽サイトがあるんで、そちらにされたんじゃないですか」と言ってくる。ESTAに登録されてないなら一大事である。しかし、ESTAのホームページにアクセスすると、どうもしっかりと登録されている。なんか、このカウンターの女性の方が「偽」なんじゃないか、と思ったので、悪いけど変わってくれ、と言う。
いや、まず、ESTAに登録されていないような一大事の要因を私が勝手に「偽サイト」にアクセスすると短絡的に判断するような人は、私のチェックインの手続きでもどんなミスをやらかすか分かったもんじゃないからだ。そこで、違う人が対応してくれたが、この人もなんかいろいろと首を傾げたりしていて、あまり信頼できなかった。結局、当たり前だがESTAはしっかりと登録されていて、何が彼女に「ESTAが登録されていない」と思わせたのかは分からなかったが、どちらにしろ、ちょっと前までだったら全日空のカウンターではまず経験しなかったようなことを経験した。まるで、インドネシアかマレーシアのチェックイン・カウンターのようである。
私も若者相手の仕事をしているので、最近の若者の劣化は目に余るものがあるな、と思っているが、まさか全日空にまで及んでいるとは想像の外であった。全日空なんて優秀じゃないと雇用されないだろう。その選りすぐりの社員でも、こんなに駄目かと思うと、本当に日本の将来が心配である。
いや、まず、ESTAに登録されていないような一大事の要因を私が勝手に「偽サイト」にアクセスすると短絡的に判断するような人は、私のチェックインの手続きでもどんなミスをやらかすか分かったもんじゃないからだ。そこで、違う人が対応してくれたが、この人もなんかいろいろと首を傾げたりしていて、あまり信頼できなかった。結局、当たり前だがESTAはしっかりと登録されていて、何が彼女に「ESTAが登録されていない」と思わせたのかは分からなかったが、どちらにしろ、ちょっと前までだったら全日空のカウンターではまず経験しなかったようなことを経験した。まるで、インドネシアかマレーシアのチェックイン・カウンターのようである。
私も若者相手の仕事をしているので、最近の若者の劣化は目に余るものがあるな、と思っているが、まさか全日空にまで及んでいるとは想像の外であった。全日空なんて優秀じゃないと雇用されないだろう。その選りすぐりの社員でも、こんなに駄目かと思うと、本当に日本の将来が心配である。
リモワをドイツで買おうとしたけど、あまりにも品数が少ないので諦めた [地球探訪記]
持っているリモワのスーツケースが壊れたので、せっかくドイツにいるので新しいのを買おうとドイツ出発日にフランクフルトの「銀座」であるハウプトヴァッフェを訪れる。まずはゲーテ・シュトラッセにあるリモワ専門店を訪れる。しかし、品数は本当、少ない。私が欲しいようなタイプはまったく置いてない。店員に尋ねると、今は在庫が少ないのでガレリア・デパートに行くといい、と言われる。え!リモワ専門店なのに無いとはどういうことだろう。
とはいえ、ハウプトヴァッフェ駅前のガレリアを訪れる。リモワはなんとスーツケース売り場ではなく、1階のブランド品売り場で売られていた。相当、儲けているのだろうなあ。さて、しかしガレリアにもほとんどトランクは展示されていなかった。展示されているものは、皆、今ひとつでドイツであっても敢えて買う必要はないようなものだった。
店員になぜ、こんなことになったのか?と尋ねると、最近、リモワのスーツケースが世界中で売れまくっているからだそうだ。圧倒的な需要過多に供給不足。リモワは丁寧につくっているので需要があっても、そう製造量を増やせないそうだ。確かに、これまで2年半ぐらい旅行に行くことが難しかったのでスーツケースの需要もなかったが、急に旅行ができるようになっているため、スーツケースが必要となっているのであろう。しかも、リモワは一度買うと、ずっと保証されるから、みんな買いたがるんだ、との説明もしてくれた。
しかし、リモワのスーツケース。ドイツでも1400ユーロぐらいの値段であった。税金を除いたとしても、相当の値段である。これは、日本だと幾らぐらいで売っているのだろうか。まあ、こういう状況なので、スーツケースを新しく買うのは諦めて、壊れたものをとりあえず修理に出してみるか。そもそもリモワのスーツケースは一生ものというのが売りなので、新しいのを買うという選択肢は、よほど修理不能でない限りはないのかもしれない。
とはいえ、ハウプトヴァッフェ駅前のガレリアを訪れる。リモワはなんとスーツケース売り場ではなく、1階のブランド品売り場で売られていた。相当、儲けているのだろうなあ。さて、しかしガレリアにもほとんどトランクは展示されていなかった。展示されているものは、皆、今ひとつでドイツであっても敢えて買う必要はないようなものだった。
店員になぜ、こんなことになったのか?と尋ねると、最近、リモワのスーツケースが世界中で売れまくっているからだそうだ。圧倒的な需要過多に供給不足。リモワは丁寧につくっているので需要があっても、そう製造量を増やせないそうだ。確かに、これまで2年半ぐらい旅行に行くことが難しかったのでスーツケースの需要もなかったが、急に旅行ができるようになっているため、スーツケースが必要となっているのであろう。しかも、リモワは一度買うと、ずっと保証されるから、みんな買いたがるんだ、との説明もしてくれた。
しかし、リモワのスーツケース。ドイツでも1400ユーロぐらいの値段であった。税金を除いたとしても、相当の値段である。これは、日本だと幾らぐらいで売っているのだろうか。まあ、こういう状況なので、スーツケースを新しく買うのは諦めて、壊れたものをとりあえず修理に出してみるか。そもそもリモワのスーツケースは一生ものというのが売りなので、新しいのを買うという選択肢は、よほど修理不能でない限りはないのかもしれない。
今日もドイチェ・バーンにはやられる。もうレンタカーしようかな。 [地球探訪記]
シュテンダールという町で13時に待ち合わせ。ベルリンからは特急であれば1時間ちょっとで行けるところにある町である。成田とか小田原みたいな感じの都市であろうか。さて、ベルリンのシュパンダー駅に10時30分頃に出発しようとする。11時ちょっと過ぎの列車に乗れば、ラッテナウという駅に12時ちょっと前に到着し、そこで乗り換えれば12時16分に着く。乗換の時間が6分と短かったのは気になったのだが、それ以外にはないということで、この列車に乗る。さて、列車は駅に止まるたびに遅れ、結局、20分ぐらい後にラッテナウ駅に着いた。連絡を待ってくれているかと期待したのだが、待っていなかった。次の列車は13時01分発で13時15分に着く。先方に連絡し、謝って待ってもらうこととする。タクシーで向かおうとも思ったが、ラッテナウからシュテンダールまでは30キロメートルぐらい。タクシーの運転手に幾らか尋ねると80ユーロから90ユーロぐらいだ、とのこと。15分待ってもらうのと、80ユーロ(約1万円)とを天秤にかけて、ここは15分待ってもらうという相手への失礼は80ユーロほどではないだろうと判断をし(会社員だったらそのような判断はしなかったとは思うが)待ってもらうこととする。
さて、それであればまだよかったのだが、この列車が遅れた。約30分ぐらいである。ということで結局45分も待たせてしまった。これは大顰蹙を買ってしまったところなのだが、先方もドイチェ・バーンじゃしょうがないよね。あなたも被害者だ、と言ってくれて責められることはなかった。
ということで、もう懲り懲りに近い気分になっている。次回からは、もうレンタカーにしようかな。
さて、それであればまだよかったのだが、この列車が遅れた。約30分ぐらいである。ということで結局45分も待たせてしまった。これは大顰蹙を買ってしまったところなのだが、先方もドイチェ・バーンじゃしょうがないよね。あなたも被害者だ、と言ってくれて責められることはなかった。
ということで、もう懲り懲りに近い気分になっている。次回からは、もうレンタカーにしようかな。
フィンランドはチップはいらない [地球探訪記]
海外に旅行して一番、困るのはチップである。アメリカはチップが義務化されている国である。チップを払わないことは、相当のことだ。サービスが相当、酷くても15%ではなくても10%はチップを払ったりする。それでさえ、ちょっと顰蹙だ。そういう国の経験をした日本人は、逆に海外はどこでもチップが必要だ、という強迫観念を覚える。その結果、『地球の歩き方』では、どこの国でもチップは必要、みたいに書いている。ただ、ヨーロッパではチップは国によって違う。ドイツは確かにちょっとチップを払う習慣がある。というか、例えば床屋は私が住んでいた頃だが19ユーロであり、ちょうど20ユーロ払うとお釣りはいらないよという感じで1ユーロのチップを払うようなシステムとなっている。タクシーもアメリカだと15%から20%だったりするが、ドイツは適当に1割ぐらい、余計に払えば大丈夫だ。
一方、フランスはいらない。いや、高級なレストランとかだと違うだろうし、タクシーはしっかりと検証したことはないが、普通の定食屋レベルであればチップを払うと、むしろ変な奴だな、というような反応をされる。
さて、そこでフィンランドである。フィンランドはもう知り合いのフィンランド人にストレートに尋ねた。結果、チップはない、とのこと。まったく無いに等しいそうだ。もちろん、あげてもいいが、それは普通ではないそうなので、日本のような感覚なのかもしれない。タクシーも13ユーロのところ14ユーロを払ったら1ユーロをお釣りで返そうとしたので、いやいやチップでいいですよ、と言ったら、ちょっとした驚きとともに喜んでもらえた。タクシーもチップを払わなくてもいい、ということであろう。
一方、フランスはいらない。いや、高級なレストランとかだと違うだろうし、タクシーはしっかりと検証したことはないが、普通の定食屋レベルであればチップを払うと、むしろ変な奴だな、というような反応をされる。
さて、そこでフィンランドである。フィンランドはもう知り合いのフィンランド人にストレートに尋ねた。結果、チップはない、とのこと。まったく無いに等しいそうだ。もちろん、あげてもいいが、それは普通ではないそうなので、日本のような感覚なのかもしれない。タクシーも13ユーロのところ14ユーロを払ったら1ユーロをお釣りで返そうとしたので、いやいやチップでいいですよ、と言ったら、ちょっとした驚きとともに喜んでもらえた。タクシーもチップを払わなくてもいい、ということであろう。
2年半年ぶりに国際線に乗る [地球探訪記]
久しぶりに国際線に乗ってドイツのフランクフルト空港に向かっている。海外に行くのは、コロナが蔓延するまさに直前の2020年2月であったから、ほぼ2年半年ぶりである。羽田空港から飛んだのだが、チェックインする際に、ワクチン証明書を提出させられた。私はワクチン証明書の用紙を持ってきたのだが、それでは不十分であり、アプリの証明書を携帯で提示して初めて認められた。
なぜかビジネスのラウンジは凄く混んでいて、これは機内も混んでいるのかと思ったら、全然、空いていた。エコノミーだったので3人掛けを一人で独占できてついていた。全日空だったのだが、フライト・アテンダントのサービスは以前に比べると明らかに劣化している。サービス産業における日本のレベルが悪化しているのは、最近、気になっていたことだが、こんなところにまで及んでいるとはちょっと驚きだ。しかし、日本のサービス産業の生産性が低いのは、サービスのコスト・パフォーマンスが良すぎるからであるから、サービスが劣化することで生産性は上がるであろう。あと、久しぶりに食べた機内食はあまりにも不味くて食べられなかった。昔は、全日空の機内食はエコノミーでもそこそこ食べれたような気がするが、アメリカの航空会社ほどひどくはないが、なかなかこういう点でも劣化している印象を受けた。日本の国際的に優れていた点が、どんどんなくなっているような気がする。
ロシアの上空を飛べないので、いつもより3時間ぐらい余計に時間がかかった。この3時間はなかなか負担が大きい。最後の1時間ぐらいは猛烈に飛行機から降りたい気分になった。15時間フライトはちょっと老体には厳しいものがある。
なぜかビジネスのラウンジは凄く混んでいて、これは機内も混んでいるのかと思ったら、全然、空いていた。エコノミーだったので3人掛けを一人で独占できてついていた。全日空だったのだが、フライト・アテンダントのサービスは以前に比べると明らかに劣化している。サービス産業における日本のレベルが悪化しているのは、最近、気になっていたことだが、こんなところにまで及んでいるとはちょっと驚きだ。しかし、日本のサービス産業の生産性が低いのは、サービスのコスト・パフォーマンスが良すぎるからであるから、サービスが劣化することで生産性は上がるであろう。あと、久しぶりに食べた機内食はあまりにも不味くて食べられなかった。昔は、全日空の機内食はエコノミーでもそこそこ食べれたような気がするが、アメリカの航空会社ほどひどくはないが、なかなかこういう点でも劣化している印象を受けた。日本の国際的に優れていた点が、どんどんなくなっているような気がする。
ロシアの上空を飛べないので、いつもより3時間ぐらい余計に時間がかかった。この3時間はなかなか負担が大きい。最後の1時間ぐらいは猛烈に飛行機から降りたい気分になった。15時間フライトはちょっと老体には厳しいものがある。
上高地は日本のヨセミテ・ヴァレーだ [地球探訪記]
上高地を訪れる。上高地はなんか行ったことがあるような気がしているが、さて、じゃあいつ行ったのかというと記憶が朧気だ。もしかしたら、物心がついてからは行ったことがないかもしれない。私の名前は「けいろう」という極めてけったいな名前であるが、これは、私がまだ胎内にいるころ、医者が私は男子ではなくて女子であると言ったために、両親は女の子の名前ばかりを考えていたからである。そして、考えた名前が、この上高地を流れる梓川からとった「あずさ」であった。そしたら蓋を開けたら、男子だったので、もう適当に両親の名前の一字をとってつけたのが、私の名前の由来である。
ということで、極めて私的な話で恐縮ではあるが、私は勝手に梓川に親しみを持っていた。そして、上高地も脳内で勝手にイメージがつくられていたのである。これは、もしかしたら上高地のガイドブックなどを見てつくりだされたものかもしれない。ということを、今回、上高地に来て気づいた。というのも、帝国ホテルなどが、自分が描いたものとギャップがあるからだ。そして、上高地から見上げる穂高連峰の景観も私の記憶(と思っていたもの)とは違う。もしかしたら、上高地を訪れたのは実は私は初めてなのかもしれない。
上高地を来て真っ先に思ったのは、ここは日本のヨセミテ・ヴァレーだな、ということである。梓川はメーセド川で、谷を急峻な山々で囲まれているという構図はまさにヨセミテ・ヴァレーを彷彿させる。ヨセミテは、ヨセミテ・フォールズを初めとして豪快ないくつもの滝が谷を彩っているが、上高地はそういうところはない。ただ、屹立する穂高連峰や焼岳などの豪壮な姿は、ヨセミテ・ヴァレーとはまた違った魅力を放っている。驚くほど素晴らしいところである。
さて、しかし、またまた個人的な話であるが、ヨセミテ・ヴァレーには私はおそらく通算で15回ぐらいは行っている。それに比して、上高地はもしかしたら初めてか、物心がつく前に親に連れられてきたことがあるぐらいである。ロスアンジェルスとサンフランシスコに住んでいたことがあるので、ちょっと旅行に行くか、という時に筆頭で上がるのはヨセミテ・ヴァレーだ。しかし、東京じゃあ、ちょっと上高地に行くか、というようにはならないような気がする。ううむ、勿体ないことをしていたな。こんなに東京に長く生活していたのに何をしていたのだ、と反省すると同時に、まあ、それでも訪れてよかったなと改めて思ったりもする。
日本の自然がつくりだす、ある意味、驚嘆すべき景観美は全国にあるが、この上高地はその筆頭なのではないだろうか。という、多くの日本人がおそらく常識と知っているようなことを実感した。
先月、北海道に行き、同宿した北海道の地元の人に「本州の人達は、北海道の自然が豊かなことに感動する」と言われた。確かに大雪山や知床、利尻岳の自然は素晴らしいし、豊かではあるが、その豪壮さという点では、とても北アルプスには及ばないな、ということを思わされた。。
<梓川と穂高連峰>
<上高地帝国ホテル。なんか私の脳内記憶とはズレがあった>
ということで、極めて私的な話で恐縮ではあるが、私は勝手に梓川に親しみを持っていた。そして、上高地も脳内で勝手にイメージがつくられていたのである。これは、もしかしたら上高地のガイドブックなどを見てつくりだされたものかもしれない。ということを、今回、上高地に来て気づいた。というのも、帝国ホテルなどが、自分が描いたものとギャップがあるからだ。そして、上高地から見上げる穂高連峰の景観も私の記憶(と思っていたもの)とは違う。もしかしたら、上高地を訪れたのは実は私は初めてなのかもしれない。
上高地を来て真っ先に思ったのは、ここは日本のヨセミテ・ヴァレーだな、ということである。梓川はメーセド川で、谷を急峻な山々で囲まれているという構図はまさにヨセミテ・ヴァレーを彷彿させる。ヨセミテは、ヨセミテ・フォールズを初めとして豪快ないくつもの滝が谷を彩っているが、上高地はそういうところはない。ただ、屹立する穂高連峰や焼岳などの豪壮な姿は、ヨセミテ・ヴァレーとはまた違った魅力を放っている。驚くほど素晴らしいところである。
さて、しかし、またまた個人的な話であるが、ヨセミテ・ヴァレーには私はおそらく通算で15回ぐらいは行っている。それに比して、上高地はもしかしたら初めてか、物心がつく前に親に連れられてきたことがあるぐらいである。ロスアンジェルスとサンフランシスコに住んでいたことがあるので、ちょっと旅行に行くか、という時に筆頭で上がるのはヨセミテ・ヴァレーだ。しかし、東京じゃあ、ちょっと上高地に行くか、というようにはならないような気がする。ううむ、勿体ないことをしていたな。こんなに東京に長く生活していたのに何をしていたのだ、と反省すると同時に、まあ、それでも訪れてよかったなと改めて思ったりもする。
日本の自然がつくりだす、ある意味、驚嘆すべき景観美は全国にあるが、この上高地はその筆頭なのではないだろうか。という、多くの日本人がおそらく常識と知っているようなことを実感した。
先月、北海道に行き、同宿した北海道の地元の人に「本州の人達は、北海道の自然が豊かなことに感動する」と言われた。確かに大雪山や知床、利尻岳の自然は素晴らしいし、豊かではあるが、その豪壮さという点では、とても北アルプスには及ばないな、ということを思わされた。。
<梓川と穂高連峰>
<上高地帝国ホテル。なんか私の脳内記憶とはズレがあった>
上高地にて猿の大群と出会う [地球探訪記]
焼岳に登り、その下山中、雨に降られる。森の中に入っていたので直接は雨が当たらなかったが、雨だと匂いを消すし、音もそれほど届かなくなるので下手したら熊に遭うかもしれないな、とちょっと不安になる。と思った矢先に、森の中にはホー・ホーという綺麗な鳴き声が樺の森の中にこだましている。これは、てっきり鳥が鳴いているのか。と思った。雨の中でも鳥は鳴くものなんだと思っていたら、何か強烈に監視されている気がして、そちらの方に目を向けると、結構、大きな猿が木から私の方をじっと凝視していた。
鳥の鳴き声と思ったのは猿の鳴き声だったのだ。そして、猿は私という侵入者がいることを仲間達に知らせるために雨の中だが鳴いていたのだった。私は猿にはトラウマしかない。高校一年生の時、小豆島を一人で旅していて森の中を歩いていたら、猿に囲まれて、猿に観光ガイドを取られたことがある。大人になった後もバリ島で、猿に襲われ、眼鏡を取られそうになったことがある。眼鏡を取られたら、自動車に乗れなくなる。これだけは避けなくてはならない、と緊張する。緊張はしても、この森は通り抜けなくてはならない。バスの最終は16時なのだ。時間的には余裕はあるが、それでもまだ2時間弱は歩かなくてはならないだろう。
とはいえ、猿も私に対して警戒心を持っているだろうから、そうそう何もすることはないだろうな、と思った矢先、私の横を一匹の猿がとんとんとんと、すり抜けていった。少しは警戒心を持てよ!というか、猫並みの人に対しての無防備さであろう。飼い犬だって、そんなことはしない。唖然として、私の横を通り抜けていった猿を目で追っていると、猿は私から8メートルぐらい行ったところで止まって振り返り、私の方をじっと見る。私を威嚇するようなことはしないし、声も出さなかった。私も歩を止め、これから何が起きるのか、どきどきしながら猿を見つめる。
ここで私は何をするべきか。威嚇をするべきなのか、どうするべきか。そこで、私は「猿でもコミュニケーションが大切だろう」と思い、猿に話しかけることにした。
「ちょっと、横を歩かなくてはいけないんだけどどいてくれないかな」。猿は相変わらず、私の方を凝視している。
「俺の言ってることが分かるだろう。通してくれよ」
すると、猿は前を見ろ、というようなジェスチャーをする。そこで前方をみると、多くの猿の群れが、私が語っている猿の先の登山道を横切っていくのであった。中には乳飲み子を抱えた母親猿もいる。私は何となく合点がいって、彼らが通り過ぎていくのを待っていた。写真に撮りたかったが、ここで一眼レフを取り出すと、彼らの警戒心を高めるかと思って、ぐっと我慢をした。この猿の群れが通り過ぎた後、見張り役の猿も登山道から離れて森の中に入っていた。
私はそれを見て、また下山をし始めた。しばらくすると、また私の前にさっきとは違うが猿がやってきてじっとこちらを見つめた。私は、さっきのように「通りたいんだけど」と止まりながら話すと、今度は後ろを見ろ、というようなジェスチャーをする。後ろをみると、さっきの群れから遅れたのか、母親猿と乳飲み子が登山道を横切っていった。私はそれをさっきとは違うような優しい気持ちで見送った。母猿と子猿が森に入っていくのを追いかけるように監視猿も森の中に入っていた。
猿に出会った時、対立をせず対話をしようと思ったことが功を奏して、事なきを得た。このとき、チワワのようにきゃんきゃん泣き叫ぶような行動に出たら、もしかしたら猿の攻撃を食らったかもしれない。異文化コミュニケーションという言葉があるが、動物とでもコミュニケーションは大切なことを知る。というか、ある意味で、人間とよりも上手くコミュニケーションができた気もする。結構、コミュニケーションができないような人間もいるからな。このように冷静に行動できた背景には、年を重ねたということもあるが、数年前にアフリカで野生のゴリラに遭遇した経験が大きく活きているかと思う(下記のブログ参照)。
(https://urban-diary.blog.ss-blog.jp/2014-08-15)
このときに、ゴリラの精神性の素晴らしさを知った。野生動物が常に攻撃的であるわけではなく、むしろ仙人のような澄んだ心の持ち主だということを知ることができたので、今回の猿との遭遇でも、相手を威嚇するというよりかは、むしろ自分の立場を理解してくれという態度に出ることができた。そして、相手の置かれた状況を理解しようとしたことが、結果的に事なきを得たのではないかと思っている。
ちょっと時間は取られたが、無事に下山でき、最終バスにも乗ることができた。
鳥の鳴き声と思ったのは猿の鳴き声だったのだ。そして、猿は私という侵入者がいることを仲間達に知らせるために雨の中だが鳴いていたのだった。私は猿にはトラウマしかない。高校一年生の時、小豆島を一人で旅していて森の中を歩いていたら、猿に囲まれて、猿に観光ガイドを取られたことがある。大人になった後もバリ島で、猿に襲われ、眼鏡を取られそうになったことがある。眼鏡を取られたら、自動車に乗れなくなる。これだけは避けなくてはならない、と緊張する。緊張はしても、この森は通り抜けなくてはならない。バスの最終は16時なのだ。時間的には余裕はあるが、それでもまだ2時間弱は歩かなくてはならないだろう。
とはいえ、猿も私に対して警戒心を持っているだろうから、そうそう何もすることはないだろうな、と思った矢先、私の横を一匹の猿がとんとんとんと、すり抜けていった。少しは警戒心を持てよ!というか、猫並みの人に対しての無防備さであろう。飼い犬だって、そんなことはしない。唖然として、私の横を通り抜けていった猿を目で追っていると、猿は私から8メートルぐらい行ったところで止まって振り返り、私の方をじっと見る。私を威嚇するようなことはしないし、声も出さなかった。私も歩を止め、これから何が起きるのか、どきどきしながら猿を見つめる。
ここで私は何をするべきか。威嚇をするべきなのか、どうするべきか。そこで、私は「猿でもコミュニケーションが大切だろう」と思い、猿に話しかけることにした。
「ちょっと、横を歩かなくてはいけないんだけどどいてくれないかな」。猿は相変わらず、私の方を凝視している。
「俺の言ってることが分かるだろう。通してくれよ」
すると、猿は前を見ろ、というようなジェスチャーをする。そこで前方をみると、多くの猿の群れが、私が語っている猿の先の登山道を横切っていくのであった。中には乳飲み子を抱えた母親猿もいる。私は何となく合点がいって、彼らが通り過ぎていくのを待っていた。写真に撮りたかったが、ここで一眼レフを取り出すと、彼らの警戒心を高めるかと思って、ぐっと我慢をした。この猿の群れが通り過ぎた後、見張り役の猿も登山道から離れて森の中に入っていた。
私はそれを見て、また下山をし始めた。しばらくすると、また私の前にさっきとは違うが猿がやってきてじっとこちらを見つめた。私は、さっきのように「通りたいんだけど」と止まりながら話すと、今度は後ろを見ろ、というようなジェスチャーをする。後ろをみると、さっきの群れから遅れたのか、母親猿と乳飲み子が登山道を横切っていった。私はそれをさっきとは違うような優しい気持ちで見送った。母猿と子猿が森に入っていくのを追いかけるように監視猿も森の中に入っていた。
猿に出会った時、対立をせず対話をしようと思ったことが功を奏して、事なきを得た。このとき、チワワのようにきゃんきゃん泣き叫ぶような行動に出たら、もしかしたら猿の攻撃を食らったかもしれない。異文化コミュニケーションという言葉があるが、動物とでもコミュニケーションは大切なことを知る。というか、ある意味で、人間とよりも上手くコミュニケーションができた気もする。結構、コミュニケーションができないような人間もいるからな。このように冷静に行動できた背景には、年を重ねたということもあるが、数年前にアフリカで野生のゴリラに遭遇した経験が大きく活きているかと思う(下記のブログ参照)。
(https://urban-diary.blog.ss-blog.jp/2014-08-15)
このときに、ゴリラの精神性の素晴らしさを知った。野生動物が常に攻撃的であるわけではなく、むしろ仙人のような澄んだ心の持ち主だということを知ることができたので、今回の猿との遭遇でも、相手を威嚇するというよりかは、むしろ自分の立場を理解してくれという態度に出ることができた。そして、相手の置かれた状況を理解しようとしたことが、結果的に事なきを得たのではないかと思っている。
ちょっと時間は取られたが、無事に下山でき、最終バスにも乗ることができた。
利尻島一周レンタカーでの小旅(オタトマリ沼を散歩し、蚊と蜂の襲撃を受ける) [地球探訪記]
利尻島に来ている。利尻岳に登ることが目的だ。二日間ほど登山可能日を設けて、初日に登れたら礼文島にでも行こうと計画していた。幸いに初日に利尻岳に登ることができたので二日目は礼文島に行こうとしたら、このコロナ禍でそれまで利尻島と礼文島を一日二本走っていたフェリーが一本に減便。これで、利尻島から礼文島の日帰りが出来なくなってしまった。仕方が無いので、レンタカーを借りて島内一周をすることにした。
レンタカーはフェリー・ターミナル前にて借りる。5時間で一万円ちょっと。さて、最初に寄ったのは利尻島郷土資料館。ここは築130年の非常に雰囲気のある木造の建物。利尻島の歴史や地理に関して、いろいろな資料が展示されている。その後は、「オタトマリ沼」に行く。ここからの利尻岳の展望はよい。北側からの優雅な容姿と違い、南側からはより無骨で荒涼としている。オタトマリ沼からの利尻岳の展望の迫力に惹かれて、沼を一周することにする。一周一キロなので大したことがないだろうと思ったのだが、これがとんでもないミスであった。というのは、歩き初めはまだハイキング・トレイルのような感じであったのだが、だんだんと道が狭くなり、しかも周辺の植物がどんどん道に侵食してきている。さらに、これらの植物に蜂が停まっていて、草をかき分けて歩いていると刺されないかとびくびくしなくてはならない。途中から利尻岳の展望も得られなくなり、ただひたすら駐車場へと戻る苦行が続く。そして、駐車場に近づけば近づくほど道は狭く、しかも緩やかに湖面に向かって傾斜しているので歩きづらいことこの上ない。すると、蚊の大群に襲われ、急いで小走りすると、なんか蜂の気に障ったのか右手の小指を刺された。それほど痛くは無かったがとんだ災難だ。オタトマリ沼にある売店で、虫刺されようの薬はあるかと尋ねると、そんなものはない、とそっけない。さらに駄目出しで、あんな湿地帯を歩く方がアホだ、というようなことを言われた。いや、それならハイキング・トレイルがあるかのように一周、歩けるなどと宣伝するなよな、と思わず言いたくなるが我慢する。
次によったのは南浜湿原。ここからの利尻岳の展望も素晴らしい。ここも散策ルートがあったが、オタトマリ沼の経験があるので避ける。
その次は沓掛に行き、有名な焼き醤油ラーメンの「味楽」に行き、昼食を取る。ここのラーメンは利尻昆布を使った出汁が美味しい、ということで評判だ。コロナで観光客が減っている中、このお店は行列が出来ていた。
そして、沓形岬に行き、利尻岳を展望し、その後、見晴台に行き利尻岳を展望する。基本、利尻島の観光は、利尻岳を眺めることに醍醐味があることに気づく。とはいえ、ついでにウニ種苗生産施設、さらには利尻手作りの乳酸飲料ミルピスを飲む。一瓶350円となかなか高いが、カルピスのような懐かしい味がする。
という感じで6時間で利尻島を一周してきた。見落としたものは姫沼とホタテフライ・カレーぐらいだろうか。
<郷土資料館>
<オタトマリ沼からみる利尻岳>
<オタトマリ沼の湖畔を一周するハイキング道路は草が多い茂っており、虫も多くいて歩きにくい。私は蜂に指を刺された>
<南浜湿原からみる利尻岳>
<見返台園地からみる利尻岳>
レンタカーはフェリー・ターミナル前にて借りる。5時間で一万円ちょっと。さて、最初に寄ったのは利尻島郷土資料館。ここは築130年の非常に雰囲気のある木造の建物。利尻島の歴史や地理に関して、いろいろな資料が展示されている。その後は、「オタトマリ沼」に行く。ここからの利尻岳の展望はよい。北側からの優雅な容姿と違い、南側からはより無骨で荒涼としている。オタトマリ沼からの利尻岳の展望の迫力に惹かれて、沼を一周することにする。一周一キロなので大したことがないだろうと思ったのだが、これがとんでもないミスであった。というのは、歩き初めはまだハイキング・トレイルのような感じであったのだが、だんだんと道が狭くなり、しかも周辺の植物がどんどん道に侵食してきている。さらに、これらの植物に蜂が停まっていて、草をかき分けて歩いていると刺されないかとびくびくしなくてはならない。途中から利尻岳の展望も得られなくなり、ただひたすら駐車場へと戻る苦行が続く。そして、駐車場に近づけば近づくほど道は狭く、しかも緩やかに湖面に向かって傾斜しているので歩きづらいことこの上ない。すると、蚊の大群に襲われ、急いで小走りすると、なんか蜂の気に障ったのか右手の小指を刺された。それほど痛くは無かったがとんだ災難だ。オタトマリ沼にある売店で、虫刺されようの薬はあるかと尋ねると、そんなものはない、とそっけない。さらに駄目出しで、あんな湿地帯を歩く方がアホだ、というようなことを言われた。いや、それならハイキング・トレイルがあるかのように一周、歩けるなどと宣伝するなよな、と思わず言いたくなるが我慢する。
次によったのは南浜湿原。ここからの利尻岳の展望も素晴らしい。ここも散策ルートがあったが、オタトマリ沼の経験があるので避ける。
その次は沓掛に行き、有名な焼き醤油ラーメンの「味楽」に行き、昼食を取る。ここのラーメンは利尻昆布を使った出汁が美味しい、ということで評判だ。コロナで観光客が減っている中、このお店は行列が出来ていた。
そして、沓形岬に行き、利尻岳を展望し、その後、見晴台に行き利尻岳を展望する。基本、利尻島の観光は、利尻岳を眺めることに醍醐味があることに気づく。とはいえ、ついでにウニ種苗生産施設、さらには利尻手作りの乳酸飲料ミルピスを飲む。一瓶350円となかなか高いが、カルピスのような懐かしい味がする。
という感じで6時間で利尻島を一周してきた。見落としたものは姫沼とホタテフライ・カレーぐらいだろうか。
<郷土資料館>
<オタトマリ沼からみる利尻岳>
<オタトマリ沼の湖畔を一周するハイキング道路は草が多い茂っており、虫も多くいて歩きにくい。私は蜂に指を刺された>
<南浜湿原からみる利尻岳>
<見返台園地からみる利尻岳>
ドイツ旅行のヒント(備忘録を兼ねて) [地球探訪記]
私はドイツを旅行する時、インターシティ・ホテルに好んで宿泊する。ドイツ全国で30都市にて展開している、シュタイゲンベルガー・ホテルを経営しているドイチェ・ホスピタリティの傘下にあるホテル・チェーンである。シュタイゲンベルガー・ホテルを東横ホテルに例えると、インターシティ・ホテルは東横インのようなものか。一応、4星クラスではある。
さて、このホテルではあるが、ライプツィヒ、エアフルト、ベルリン(東駅)、ドレスデン、フライブルグ、マンハイム、ロストックなどで泊まったことがある。なぜ、好んで泊まるかというと、多くの場合、中央駅のそばにあること、そして公共交通の一日券をくれるからである。あと、極めて機能的な部屋であるが、清潔であることもポイントが高い。
ということで、今回、ミュンヘンに泊まるうえでも、インターシティ・ホテルを予約したのだが、ここはちょっと驚くほど酷かった。いや、ブッキング・ドット・コムでの評価が7点台と相当、低かったので、不思議に思っていたのだが、インターシティ・ホテルのブランドを下げるようなぼろい部屋、清潔とはいえない絨毯、さらに行き届いていないサービス。
今後もインターシティ・ホテルには泊まっていくと思うが、ミュンヘンだけは避けようと思い、ここに私への備忘録も兼ねて記させてもらう。
さて、このホテルではあるが、ライプツィヒ、エアフルト、ベルリン(東駅)、ドレスデン、フライブルグ、マンハイム、ロストックなどで泊まったことがある。なぜ、好んで泊まるかというと、多くの場合、中央駅のそばにあること、そして公共交通の一日券をくれるからである。あと、極めて機能的な部屋であるが、清潔であることもポイントが高い。
ということで、今回、ミュンヘンに泊まるうえでも、インターシティ・ホテルを予約したのだが、ここはちょっと驚くほど酷かった。いや、ブッキング・ドット・コムでの評価が7点台と相当、低かったので、不思議に思っていたのだが、インターシティ・ホテルのブランドを下げるようなぼろい部屋、清潔とはいえない絨毯、さらに行き届いていないサービス。
今後もインターシティ・ホテルには泊まっていくと思うが、ミュンヘンだけは避けようと思い、ここに私への備忘録も兼ねて記させてもらう。
タグ:インターシティ・ホテル ドイツ
おそらく生まれて初めてくそ高いタリスに乗る [地球探訪記]
ブリュッセルからパリに行かなくてはならない。パリに19時30分に食事の約束をしているからだ。ということで、チケットを購入しようとしたら、驚愕の145ユーロ。二等席が満席だったので一等席に乗らなくてはならなかったからだが、それにしても高い。たかだか1時間ちょっとの距離を走るだけである。東京ー名古屋よりも近い。とはいえ、他に選択肢もないので致し方ないから購入した。ちなみに、午前中にほぼ同距離のアーヘンからブリュッセルまでドイツのICEに乗ったが40ユーロちょっとであった。本当、タリスは高い。
そもそも、おそらくタリスに乗ったのは初めてのような気がする。TGVには何回か乗ったことがあるがタリスは避けていた。これは、完全予約制が面倒くさいのと、何より値段が高かったからである。
さて、タリスの一等車。こんな値段払うなら飛行機の方が安いぐらいだよな、機内サービスもあるし、などと思っていたら、なんと機内サービスありましたね。珈琲とケーキ・セットのようなものがでました。まあ、大して美味しくもないけど、地上を走るビジネス・クラスのようなイメージなんですかね。
ただ、ネットの無料サービスとかがあるんですが、接続する際にアンケートに回答させられ、そのアンケートがどんな利用をしましたかって、これからアクセスすんだよ、と思わず毒づきました。車内のインテリアとかはお洒落ですが、外見とか見栄ばかりを気にするフランス人気質をよく表している鉄道サービスだな、とつくづく思わされましたね。ちなみに、ネットはフランス語以外にオランダ語、英語、ベルギー語のホームページがあるのですが、なぜかヨーロッパで最も使われているドイツ語がありません。ドイツでも走っているんだけど、このタリス。ここらへんもフランス人らしいな、と偏見を持って思いました。
そもそも、おそらくタリスに乗ったのは初めてのような気がする。TGVには何回か乗ったことがあるがタリスは避けていた。これは、完全予約制が面倒くさいのと、何より値段が高かったからである。
さて、タリスの一等車。こんな値段払うなら飛行機の方が安いぐらいだよな、機内サービスもあるし、などと思っていたら、なんと機内サービスありましたね。珈琲とケーキ・セットのようなものがでました。まあ、大して美味しくもないけど、地上を走るビジネス・クラスのようなイメージなんですかね。
ただ、ネットの無料サービスとかがあるんですが、接続する際にアンケートに回答させられ、そのアンケートがどんな利用をしましたかって、これからアクセスすんだよ、と思わず毒づきました。車内のインテリアとかはお洒落ですが、外見とか見栄ばかりを気にするフランス人気質をよく表している鉄道サービスだな、とつくづく思わされましたね。ちなみに、ネットはフランス語以外にオランダ語、英語、ベルギー語のホームページがあるのですが、なぜかヨーロッパで最も使われているドイツ語がありません。ドイツでも走っているんだけど、このタリス。ここらへんもフランス人らしいな、と偏見を持って思いました。
ミュンヘン空港からミュンヘン中央駅はえらく遠い [地球探訪記]
ドイツに来る。ライプツィヒに用事があるからだ。ということで、通常であればフランクフルト空港を使うのだが、今回はミュンヘン空港を使った。さて、到着して気づいたのだが、ミュンヘン空港からミュンヘン中央駅は鉄道でアクセスすると相当、距離があるということだ。大体40分。フランクフルト空港は、もう駅に高速列車が停車するし、デュッセルドルフ空港も変なモノレールのようなものに乗るが、デュッセルドルフ空港駅は多くの高速列車が停まる。停まらないものも少なくないが、そこから中央駅まではほんの10分ぐらいである。それらに比べるとミュンヘン空港は不便だなあ。
タグ:ミュンヘン空港
中国の通関で足止めを喰らい、罰金を取られる [地球探訪記]
中国から日本へ帰国する際、通関で足止めを喰らい、別室に連れて行かれる。何だ、何だと思ったが、どうもビザでの滞在期間の上限14日を1日オーバーしていたらしい。そんなルールがあることを迂闊にも気づかないでいた。一日オーバーするごとに罰金500元を取られる、ということで罰金を払うことになった。現金を持っていたので、問題なく対応できたが、現金を持っていなかったら面倒なことになっていたかもしれない。この手続きに1時間近くかかり、早めにチェックインしていたのでよかったが、ぎりぎりの時間であったら飛行機に乗り損ねたかもしれない。
成都の麻雀 [地球探訪記]
成都はどうも麻雀が随分と盛んな地域であるようだ。そして、我々がフィールドワークをした崇徳村も、もうあちらこちらで麻雀がやられている。商店街の中でも一番、多い業種は雀荘のような印象を受ける。もちろん、雀荘以外でも麻雀はやられている。ただ、やはりこちらの人も圧倒的に全自動宅でやりたいらしく、全自動宅で麻雀ができる雀荘は人気のようだ。
さて、そこで我々もチャレンジしてみた。日本と中国ではルールが違うというのを聞いていたが、実際、やってみてその違いの大きさに驚いた。まず、字牌がまったくない。そして、牌も二種類だけである。そして、なんと手持ちの牌は13牌ではなく10牌であり、11牌目で上がりとなる。あとリーチがないのと、ふりテンがない。こちらでは漫画「ふりテン」君の意味が通じないであろう。さらにはチーができない。これがどういう意味か。日本とは役を上がる確率が大きく異なるようになることだ。例えば、清一色は相当、上がりやすい役となる。逆にイーペイコウは上がりにくくなる。チーができないので、タンヤオは攻撃力を失う。牌数が少ないのでトイトイは有利である、などだ。また、一人上がっても、そこで終わらず、ドベが決定されるまで続けられる。このため先上がりがどうも得ではないようで、敢えて聴牌からイーシャンテンに戻すような打ち方をしている人も見つけた。
皆、凄い早さで牌を捨てている。日本の麻雀のように捨て牌を読むような必要もないからだ。なんか、楽しいのかなあ、とも思うが、この普及具合は日本の麻雀よりずっと簡単なルールであるかもしれない。あと、気になったのは点数の数え方だが、これはよく分からなかった。
(崇徳村の雀荘)
(崇徳村の雀荘で麻雀を楽しむ大学生達)
(雀荘以外のところでも麻雀は楽しまれている)
さて、そこで我々もチャレンジしてみた。日本と中国ではルールが違うというのを聞いていたが、実際、やってみてその違いの大きさに驚いた。まず、字牌がまったくない。そして、牌も二種類だけである。そして、なんと手持ちの牌は13牌ではなく10牌であり、11牌目で上がりとなる。あとリーチがないのと、ふりテンがない。こちらでは漫画「ふりテン」君の意味が通じないであろう。さらにはチーができない。これがどういう意味か。日本とは役を上がる確率が大きく異なるようになることだ。例えば、清一色は相当、上がりやすい役となる。逆にイーペイコウは上がりにくくなる。チーができないので、タンヤオは攻撃力を失う。牌数が少ないのでトイトイは有利である、などだ。また、一人上がっても、そこで終わらず、ドベが決定されるまで続けられる。このため先上がりがどうも得ではないようで、敢えて聴牌からイーシャンテンに戻すような打ち方をしている人も見つけた。
皆、凄い早さで牌を捨てている。日本の麻雀のように捨て牌を読むような必要もないからだ。なんか、楽しいのかなあ、とも思うが、この普及具合は日本の麻雀よりずっと簡単なルールであるかもしれない。あと、気になったのは点数の数え方だが、これはよく分からなかった。
(崇徳村の雀荘)
(崇徳村の雀荘で麻雀を楽しむ大学生達)
(雀荘以外のところでも麻雀は楽しまれている)
崇徳の村にある小学校を訪れる [地球探訪記]
崇徳の村にある小学校を訪れる。校長先生のお話を聞く。校長先生が赴任した時は学生数は210人だったが、現在は180人となっている。この村は小学校までしかない。小学校を卒業するとどうなるのか。校長先生に尋ねると、分からないという。なぜ、分からないのか、最初は不思議であったがこれは戸籍の問題で、いわゆる都市戸籍を有してない人は都市に出ても内緒か、私のような外国人に報告するような内容ではないことから分からないと回答したようだ。
ちなみに中国の学校制は9年制。現在、これを12年制に変えようとしているそうだ。9年制を開始したのも20年前である。この小学校の前に包子屋があるのだが、そこのご主人は33歳であるが、小学校卒である。というと、ちょうど最後の小学校卒になるのであろうか。ちなみに中学校はこの村にはないので、公立だが寄宿舎に入る形となる。あとデータはないが、大学にまで行くとほとんど村には戻ってこないそうである。これは、大学まで行くと都市戸籍が取れるからのようだが、ここらへんのシステムを私はまだしっかりと理解していない。
小学校は村のほぼ中心に位置し、この村の社会的にも中心としての役割を担っていると思う。建物はコンクリートの4階建てである。小学校としては、読書と道徳に力を入れているそうだ。特に前者は入学試験に求められるので重要なそうだ。小学校の運営に関しては、共産党と児童の父母からの支持が不可欠であるようだ。先生の給料はとても安く、校長先生の仕事はこれを補填するような財源を確保することらしいとの説明があったが、具体的な数字や保全方策は聞けなかった。中国はしっかりと教育に力を入れているというイメージがあったが、崇徳のような村レベルであるといろいろと大変な問題が山積みされているようであった。
ちなみに中国の学校制は9年制。現在、これを12年制に変えようとしているそうだ。9年制を開始したのも20年前である。この小学校の前に包子屋があるのだが、そこのご主人は33歳であるが、小学校卒である。というと、ちょうど最後の小学校卒になるのであろうか。ちなみに中学校はこの村にはないので、公立だが寄宿舎に入る形となる。あとデータはないが、大学にまで行くとほとんど村には戻ってこないそうである。これは、大学まで行くと都市戸籍が取れるからのようだが、ここらへんのシステムを私はまだしっかりと理解していない。
小学校は村のほぼ中心に位置し、この村の社会的にも中心としての役割を担っていると思う。建物はコンクリートの4階建てである。小学校としては、読書と道徳に力を入れているそうだ。特に前者は入学試験に求められるので重要なそうだ。小学校の運営に関しては、共産党と児童の父母からの支持が不可欠であるようだ。先生の給料はとても安く、校長先生の仕事はこれを補填するような財源を確保することらしいとの説明があったが、具体的な数字や保全方策は聞けなかった。中国はしっかりと教育に力を入れているというイメージがあったが、崇徳のような村レベルであるといろいろと大変な問題が山積みされているようであった。
崇德村のコミュニティを訪れる [地球探訪記]
成都市から車で小一時間ぐらいのところにある崇州市の崇德村のフィールドワークを四川大学、国立台湾大学等の学生達と一緒に行っている。龍谷大学政策学部の学生も3名ほど参加している。住民の状態などはよく分からないので、取材をするしかない。ということで、ある村落に入って学生達が取材するのに同行する。
この村落は19戸。皆、同じ名字らしい。最初に取材をしたのはおばあさんとおばさん。その後、いろいろと村落の人達もわやわやとやってきたが、取材の中心はこの二人である。おばあさんは82歳。闊達としており、とてもそのように高齢とは思えない。もう一人のおばさんは52歳。このおばさんはとても元気で、以前、チベットに出稼ぎに行き、そこで身体を壊し、心臓手術をすることになってしまった。この治療日が1万元。保険で補填してくれたのはわずか2000元だったので、せっかくチベットにまで行ったのに元が取れなかったようだ。
なんか凄い話だなと思ったが、どうもこの村落の人達はチベットや青海(せいかい)に土木工事で出稼ぎに行くようだ。チベットとの間に道路や鉄道などのインフラを整備して、より支配下におこうとしている中国政府の野心も見え隠れする。我々の話に途中から入ってきたおじさんもやはりチベットに行っていたそうだ。ただ、人の指図を受けるのが嫌なので、お金が稼げなくても自由な農業をやるためにここに戻ってきたそうである。
このおばさんが住んでいる家はなかなか立派で、中庭などもあり、最近のシリコンバレーの金持ちが大金をはたきそうな家づくり(最近のシリコンバレーの金持ちはどうも自宅で農業というのが流行りだそうだ)なので、私はてっきり庄屋なのかなと思っていたが、おばさんの話だと収入もなく、とても貧乏だということだそうだ。本当かよ、と思ったりもしたが、チベットに出稼ぎに行くぐらいなのでこれは事実なのであろう。
この二人に、どこかこの地区でよい所は?と聞いてもらったが、「何もない」とのこと。さらに、周辺につくられている郊外住宅風の強制移転された人達向けの住宅地には是非ともチャンスがあれば引っ越したいという。ただ、この周辺では最も洗練された環境共生型住宅の「五星村」はあまり好きでないようだ。その理由は、妙に周辺の農地と共存していて近代的ではないからだからだそうだ。とはいえ、政府のお金が出ればの話で、自分達では一元も払いたくないそうだ。
82歳のおばあさんに成都のマンションに引っ越したいか、というと躊躇なく、引っ越したいと言う。そこで私が、しかし友達がいなくなると寂しいのでは、と尋ねると、友達と一緒に引っ越したいという。日本だと農村から子供がいる都会に高齢者が引っ越すと早死にするということをちょっと指摘したい気分にもなったが、それは遠慮した。
いろいろと唖然とする私に、友人の国立台湾大学の先生は、「この人達の言葉を真に受けたらダメだ。これだけ周辺の環境をしっかりと管理している人達が、土地に愛情がない訳がない」と言ったので、そうかも、と思ったが、私はそれでも現状に対する相当のストレスがあるなとは感じた。
この村落は19戸。皆、同じ名字らしい。最初に取材をしたのはおばあさんとおばさん。その後、いろいろと村落の人達もわやわやとやってきたが、取材の中心はこの二人である。おばあさんは82歳。闊達としており、とてもそのように高齢とは思えない。もう一人のおばさんは52歳。このおばさんはとても元気で、以前、チベットに出稼ぎに行き、そこで身体を壊し、心臓手術をすることになってしまった。この治療日が1万元。保険で補填してくれたのはわずか2000元だったので、せっかくチベットにまで行ったのに元が取れなかったようだ。
なんか凄い話だなと思ったが、どうもこの村落の人達はチベットや青海(せいかい)に土木工事で出稼ぎに行くようだ。チベットとの間に道路や鉄道などのインフラを整備して、より支配下におこうとしている中国政府の野心も見え隠れする。我々の話に途中から入ってきたおじさんもやはりチベットに行っていたそうだ。ただ、人の指図を受けるのが嫌なので、お金が稼げなくても自由な農業をやるためにここに戻ってきたそうである。
このおばさんが住んでいる家はなかなか立派で、中庭などもあり、最近のシリコンバレーの金持ちが大金をはたきそうな家づくり(最近のシリコンバレーの金持ちはどうも自宅で農業というのが流行りだそうだ)なので、私はてっきり庄屋なのかなと思っていたが、おばさんの話だと収入もなく、とても貧乏だということだそうだ。本当かよ、と思ったりもしたが、チベットに出稼ぎに行くぐらいなのでこれは事実なのであろう。
この二人に、どこかこの地区でよい所は?と聞いてもらったが、「何もない」とのこと。さらに、周辺につくられている郊外住宅風の強制移転された人達向けの住宅地には是非ともチャンスがあれば引っ越したいという。ただ、この周辺では最も洗練された環境共生型住宅の「五星村」はあまり好きでないようだ。その理由は、妙に周辺の農地と共存していて近代的ではないからだからだそうだ。とはいえ、政府のお金が出ればの話で、自分達では一元も払いたくないそうだ。
82歳のおばあさんに成都のマンションに引っ越したいか、というと躊躇なく、引っ越したいと言う。そこで私が、しかし友達がいなくなると寂しいのでは、と尋ねると、友達と一緒に引っ越したいという。日本だと農村から子供がいる都会に高齢者が引っ越すと早死にするということをちょっと指摘したい気分にもなったが、それは遠慮した。
いろいろと唖然とする私に、友人の国立台湾大学の先生は、「この人達の言葉を真に受けたらダメだ。これだけ周辺の環境をしっかりと管理している人達が、土地に愛情がない訳がない」と言ったので、そうかも、と思ったが、私はそれでも現状に対する相当のストレスがあるなとは感じた。
成都を訪れる [地球探訪記]
成都を訪れる。生まれて初めてである。というか、中国はそもそもチベットと香港以外には空港でのトランジット以外では来たことがなかったのだが3月に南京を訪れ、その3ヶ月後には成都に来ている。大学を変えてから中国が急に身近になっている。
なぜ、これまで中国に来なかったのかというと避けてきたからである。人生は短いし、私はフィールド研究の対象をブラジルのクリチバ、ドイツの縮小都市と留学をしていたアメリカ合衆国に絞っており、それでも拡散して専門性が全然、高められていないのに敢えて、広大なる未知の土地、しかも多くの日本人が既にクビを突っ込んでおり、さらにまったく中国語が分からない自分がやる必要性は社会的に皆無だなと思っていたからである。知り合いの先生で、あちらこちらの国の調査を食い散らかしてやっており、世間的には専門家とみられていても、専門家からみると何も分かっていないじゃないという人もいるので、こういう人になってはあかんなと反面教師に捉えていたこともある。こういう先生はもちろん、中国にも手を出している。
とはいえ、いろいろな縁があり、研究生活も残り15年間を切った今、なんと中国と関係性を持つような状況になってしまっているのである。さて、しかし、これもちょっと肯定的に捉えようとしている自分もいる。もう、人生もそれほど長くないので、都市計画を研究するものとしてやはり、中国を全然知らないのも不味いだろうという気分にもようやくなってきたからである。
さて、それで成都である。まだ三日間しかおらず、昼はほとんど市内の四川大学のキャンパスにいるだけではあるが、まず巨大なニュータウンのようで驚いた。これは、昔の都市の痕跡をほとんど一掃したということだろうか。スクラップ・アンド・ビルドを凄いスケールでやったのではないかという印象を受ける。どうも、旧市街地も保全されているそうで、そこはヒューマン・スケールの都市空間が維持されているようなのだが、まだそこを見ていないので、現時点の印象は、もう千里ニュータウンをそのまま2倍に縮小したかのような規模の都市となっている。100メートルは幅があるかと思われる大通りは上部に高速道路が走っており、その交通量は凄まじい。自動車だけでなくオートバイ、自転車も凄い量で、朝のラッシュアワーの自転車の交通量はコペンハーゲンも凌いでいる印象だ。
商業施設は充実しており、ショッピングセンターやデパートはほとんど台北やソウルなどと遜色がないくらいだ。イオン・モールよりは洗練されているが、大丸ほどはお洒落ではないという位置づけであろうか。
また、標高500メートルということで、涼しいのではと期待していたのだが、なんと昨日の気温は34度。京都より暑いじゃないか!学生を連れてきたのだが、京都より涼しいよ、と適当なことを言っていたので嘘つきになってしまった。
都心部には錦江という川が流れているのだが、ドブのような臭いを放っている。急激な都市化に伴う公害は、大気汚染だけではないということに気づかされる。
あと、飲食店が多く、食い道楽の都市なのではないかと推察する。これまで、火鍋と四川料理のお店、それに餃子屋に入ったが、火鍋や四川料理のお店はさすが本場は驚くほど美味しく、日本の美味しいと言われる四川料理のお店が大したことがないということを認識する。ちょっと人類の創造力に脱帽したくなるような美味しさである。ただし、辛さはなかなか強烈だが(とはいえ、店の人にはマイルドとお願いしている)。
最後に成都のシンボルはパンダのようで、街中のあちこちにパンダの看板を見かける。西に車で数時間ほど行くと、パンダの生息地もあるそうで、なんかそういう話はロマンがあって個人的にとても好きだ。その地域に対してのイマジネーションを膨らませる。パンダというと竹だが、竹の植物園もあったりもして、そこもちょっと訪れたが、これは正直、期待外れだった。私でも、この植物園よりいい設計ができるような気さえした。
ということで、まだ成都の0.1%も知っていないだろうが、とりあえず第一印象ということでメモ書きのような書き殴りをさせてもらうことをお許しいただきたい。
なぜ、これまで中国に来なかったのかというと避けてきたからである。人生は短いし、私はフィールド研究の対象をブラジルのクリチバ、ドイツの縮小都市と留学をしていたアメリカ合衆国に絞っており、それでも拡散して専門性が全然、高められていないのに敢えて、広大なる未知の土地、しかも多くの日本人が既にクビを突っ込んでおり、さらにまったく中国語が分からない自分がやる必要性は社会的に皆無だなと思っていたからである。知り合いの先生で、あちらこちらの国の調査を食い散らかしてやっており、世間的には専門家とみられていても、専門家からみると何も分かっていないじゃないという人もいるので、こういう人になってはあかんなと反面教師に捉えていたこともある。こういう先生はもちろん、中国にも手を出している。
とはいえ、いろいろな縁があり、研究生活も残り15年間を切った今、なんと中国と関係性を持つような状況になってしまっているのである。さて、しかし、これもちょっと肯定的に捉えようとしている自分もいる。もう、人生もそれほど長くないので、都市計画を研究するものとしてやはり、中国を全然知らないのも不味いだろうという気分にもようやくなってきたからである。
さて、それで成都である。まだ三日間しかおらず、昼はほとんど市内の四川大学のキャンパスにいるだけではあるが、まず巨大なニュータウンのようで驚いた。これは、昔の都市の痕跡をほとんど一掃したということだろうか。スクラップ・アンド・ビルドを凄いスケールでやったのではないかという印象を受ける。どうも、旧市街地も保全されているそうで、そこはヒューマン・スケールの都市空間が維持されているようなのだが、まだそこを見ていないので、現時点の印象は、もう千里ニュータウンをそのまま2倍に縮小したかのような規模の都市となっている。100メートルは幅があるかと思われる大通りは上部に高速道路が走っており、その交通量は凄まじい。自動車だけでなくオートバイ、自転車も凄い量で、朝のラッシュアワーの自転車の交通量はコペンハーゲンも凌いでいる印象だ。
商業施設は充実しており、ショッピングセンターやデパートはほとんど台北やソウルなどと遜色がないくらいだ。イオン・モールよりは洗練されているが、大丸ほどはお洒落ではないという位置づけであろうか。
また、標高500メートルということで、涼しいのではと期待していたのだが、なんと昨日の気温は34度。京都より暑いじゃないか!学生を連れてきたのだが、京都より涼しいよ、と適当なことを言っていたので嘘つきになってしまった。
都心部には錦江という川が流れているのだが、ドブのような臭いを放っている。急激な都市化に伴う公害は、大気汚染だけではないということに気づかされる。
あと、飲食店が多く、食い道楽の都市なのではないかと推察する。これまで、火鍋と四川料理のお店、それに餃子屋に入ったが、火鍋や四川料理のお店はさすが本場は驚くほど美味しく、日本の美味しいと言われる四川料理のお店が大したことがないということを認識する。ちょっと人類の創造力に脱帽したくなるような美味しさである。ただし、辛さはなかなか強烈だが(とはいえ、店の人にはマイルドとお願いしている)。
最後に成都のシンボルはパンダのようで、街中のあちこちにパンダの看板を見かける。西に車で数時間ほど行くと、パンダの生息地もあるそうで、なんかそういう話はロマンがあって個人的にとても好きだ。その地域に対してのイマジネーションを膨らませる。パンダというと竹だが、竹の植物園もあったりもして、そこもちょっと訪れたが、これは正直、期待外れだった。私でも、この植物園よりいい設計ができるような気さえした。
ということで、まだ成都の0.1%も知っていないだろうが、とりあえず第一印象ということでメモ書きのような書き殴りをさせてもらうことをお許しいただきたい。
タグ:成都
鶴岡からもっとも早く帰京する方法 [地球探訪記]
鶴岡から帰京するうえで、私はレンタカーで奥羽本線の新庄駅まで行き、そこから山形新幹線で東京まで行くのが最短であろうと勝手に考えていた。しかし、実は、羽越本線の特急に乗って新潟経由で戻る方が早いことを鶴岡の人に聞いて知った。鶴岡からレンタカーで新庄駅まで行くのに1時間かかるので、もう圧倒的に羽越本線、上越新幹線の方が早い。やられた、というか意表を突かれた。悔しいので備忘録として、またもしかしたら、この情報が参考になる人もいるかもしれないので、ここに記しておく。
ニューヨークはもうマンハッタンのホテルは高すぎて泊まれない [地球探訪記]
ニューヨークに一週間ほど滞在した。最初は、マンハッタンのホテルにチェックインした。ペン・ステーションのそばでガーメント・ディストリクトにあるホテルだ。ここのホテルは一泊2万円ぐらいなので、マンハッタンにあるには相当、割安なのでこれはお買い得かと思ってここを予約した。しかし、実際行くと、もう想像を絶するボロ宿で、床はなんとコンクリートそのままむき出しであった。私は、アフリカでもパラグアイでもスラヴェシ島でもパキスタンでも泊まったことがあるが(これらはしかし、仕事で行っていたので比較的よいホテルには泊まっていたが)、こんな床がコンクリのホテルは生まれて初めてであった。ベッドの下のところだけ、ぼろ切れが置かれているな、と思ったのだが、よく見たら、擦り切れまくった絨毯であった。安かろう、悪かろうということなのかもしれないが、こんな壮絶なホテルの部屋があるとは驚きである。いや、この部屋、ベッドで横になっている以外は靴がまじで脱げない。
あまりにも酷いので、途中からイースト・リバーを越えてブルックリンのフルトン・モールのそばにあるホテルに移った。ここは値段はほぼ同じで一泊2万円ぐらいであったが、床はしっかりと人間が居住するような床でサービスもすこぶるよかった。何より、ガーメント・ディストリクトよりもフルトン・モール周辺の方が食事どころも遙かによくて、しかもリーズナブルである。マンハッタンにも地下鉄に乗ればすぐに行けるし、JFK空港にはアトランティック・ターミナルからロング・アイランド鉄道に乗れば3駅、20分ちょっとで着く。まあ本数は20分に1本(日曜日だったからかもしれない)と少ないが、それでも便利である。こりゃ、マンハッタンのホテルに泊まる必要はないな。
などと書きつつ、最近、マンハッタンに泊まったのは他の人と一緒の時と、ニューヨーク市立大学に呼ばれて宿代を支払ってもらった時だけだということに気づいた。いや、20代の時はシェラトン・ホテルに泊まっていた。ウディ・アレンが映画(おそらく「ハンナとその姉妹」だったと思う)で不倫に使っていたホテルである。それから、ちょっとホテル代が高くなったこともあり、ホリデイインとかコートヤード・マリオットとホテルのクラスは下がっていたが、それでもマンハッタンに泊まっていた。
しかし、おそらく会社を辞めた頃だから2003年頃ぐらいから、マンハッタンのホテルだと高すぎるので、フラッシングのシェラトンに泊まるようになった。当時、ここだと68ドルとかで泊まれたからだ。とはいえ、それが最近では250ドルぐらいになってしまった。ということで、今回は困ったな、ということでより安いマンハッタンの200ドルのホテルに泊まったら酷い目に遭った訳である。
まあ、シェラトンと比べると、私が泊まったブルックリンのフルトン・モールそばのEven Hotelはちょっと劣るかもしれないが、これは値段でいえば50ドル分ぐらいの劣り具合であり、周辺の店やマンハッタンへのアクセスの良さを考えると、これからはブルックリンのホテルに泊まろうかなと帰国便を待つJFK空港で思ったりしている。
あまりにも酷いので、途中からイースト・リバーを越えてブルックリンのフルトン・モールのそばにあるホテルに移った。ここは値段はほぼ同じで一泊2万円ぐらいであったが、床はしっかりと人間が居住するような床でサービスもすこぶるよかった。何より、ガーメント・ディストリクトよりもフルトン・モール周辺の方が食事どころも遙かによくて、しかもリーズナブルである。マンハッタンにも地下鉄に乗ればすぐに行けるし、JFK空港にはアトランティック・ターミナルからロング・アイランド鉄道に乗れば3駅、20分ちょっとで着く。まあ本数は20分に1本(日曜日だったからかもしれない)と少ないが、それでも便利である。こりゃ、マンハッタンのホテルに泊まる必要はないな。
などと書きつつ、最近、マンハッタンに泊まったのは他の人と一緒の時と、ニューヨーク市立大学に呼ばれて宿代を支払ってもらった時だけだということに気づいた。いや、20代の時はシェラトン・ホテルに泊まっていた。ウディ・アレンが映画(おそらく「ハンナとその姉妹」だったと思う)で不倫に使っていたホテルである。それから、ちょっとホテル代が高くなったこともあり、ホリデイインとかコートヤード・マリオットとホテルのクラスは下がっていたが、それでもマンハッタンに泊まっていた。
しかし、おそらく会社を辞めた頃だから2003年頃ぐらいから、マンハッタンのホテルだと高すぎるので、フラッシングのシェラトンに泊まるようになった。当時、ここだと68ドルとかで泊まれたからだ。とはいえ、それが最近では250ドルぐらいになってしまった。ということで、今回は困ったな、ということでより安いマンハッタンの200ドルのホテルに泊まったら酷い目に遭った訳である。
まあ、シェラトンと比べると、私が泊まったブルックリンのフルトン・モールそばのEven Hotelはちょっと劣るかもしれないが、これは値段でいえば50ドル分ぐらいの劣り具合であり、周辺の店やマンハッタンへのアクセスの良さを考えると、これからはブルックリンのホテルに泊まろうかなと帰国便を待つJFK空港で思ったりしている。
ジャクソン・ハイツを訪れ、大いにたまげる [地球探訪記]
クイーンズにあるジャクソン・ハイツを訪れた。私はマンハッタンのホテルが高くなってから、フラッシングのシェラトンを常宿にしていたことがある。当時は、1泊100ドル以下、60ドルから70ドルぐらいで泊まれたからだ。今は、ここでも300ドル近く取るようになったので泊まることを止めてしまったが。それはともかくとして、フラッシングに泊まって地下鉄7号線でマンハッタンに通うということをしていたので、ジャクソン・ハイツはしょっちゅう通過していた。しかし、降りることはしなかった。
昨年、巨匠ワイズマンによる映画『ジャクソン・ハイツ』を見た。なかなか内容が濃い映画で、私は映画のトークショーにも渋谷、出町座と二回も出演した。しかし、ジャクソン・ハイツを訪れたことはなかったので、ブルックリンに来ているこの機会をうまく使って訪れた。
ジャクソン・ハイツは人口10万8千人のクイーンズのネイバーフッドである。住民の56%がヒスパニックでアジア系が22%、白人が17%、そしてアフリカ系は2%しかいないという面白い住民構成をしているネイバーフッドである。
ジャクソン・ハイツは20世紀前半にエベネザー・ハワードの田園都市の影響を受け、マンハッタンの高密度を回避したい中流から上流階級の人達を対象に、エドワード・マクダウガルのクイーンズボロ会社によって1917年の7号線(フラッシング線)の開通に合わせる形で1916年から区画整理がされた。つくられた住宅は、アングロ・サクソンのプロテスタントのみに提供され、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ギリシャ人、イタリア人は排斥された。
住民の構成が変わったのは大恐慌の後の1930年頃からである。マンハッタンの劇場関係者の同性愛者がここに住みつくようになり、マンハッタンの外では最大の同性愛者地区を形成する。ユダヤ人も1940年頃からは住むことが許可され、1950年以降はコロンビアの中流階層が母国の犯罪から逃れるように資本を持ってやってきて、ここにコミュニティをつくることになる。一方、ロング・アイランドの郊外開発が進む1960年以降は、ここに住みついていた白人層が、そちらの方に移住するようになる。いわゆるホワイト・フライトのような現象だ。1965年に移民改善法が成立し、家族を呼ぶことができるようになるとラテン・アメリカやインドの専門家達が、こぞって家族を呼び、ジャクソン・ハイツに居を構えるようになる。
1970年代半ばになると、ルーズベルト・アベニューがジャクソン・ハイツの商業センターになり、また組織的犯罪の拠点として全国レベルでの関心を呼ぶようになる。1970年代後半には、1年間で9人の殺害事件がここで起きる。1990年にプエルトリコ人の同性愛者であるフリオ・リベラがヘイト・クライムの被害者として殺害されると、大きなデモ活動が起き、それが今にも続くクイーンズ・プライド・パレードが始まるきっかけとなる。
1990年以降ニューヨーク市の治安が回復すると、ジャクソンハイツのコロンビアのコカイン関係の犯罪も減少していき、現在の多様な人々が住むネイバーフッドになっていく。
ジャクソン・ハイツのことをざっと整理すると、こんな感じになる。さて、ブルックリンのホテルからG号線と7号線を乗り継ぎ、82番街の駅で降りる。7号線はルーズベルト・アベニューの上を高架で走っているのだが、上を走っている時にはまったく気づかなかったような世界が駅を降りると展開している。いきなり、トウモロコシとシシカバブーを鉄板で温めながら売っている屋台が目の前に展開する。周りの店舗は、どぎつい原色の看板を立てており、それらの多くは英語ではない。スペイン語のものが多いが、アルファベットでないものもある。香港を彷彿させもするが、もっとさらに色彩はどぎつい感じがする。
ここがニューヨークであるとはとても思えない。というか、アメリカ合衆国とはとても思えない。それじゃあ、中南米か、と言われると決してそうでもない。ラテン・アメリカとインドなどの南アジアのテイストが混在している。高架の地下鉄が頭の上を走っているので、むしろブレードランナーの世界を彷彿する。
ここでは私はまったくの異邦人だ。この異邦人感覚は相当、強烈である。そして、ちょっと緊張もさせる。私はアフリカのルワンダや、マレーシアのスラヴェシ島、パナマやパラグアイなどにも行ったことがあるが、そのどこよりも緊張したかもしれない。いや、パラグアイのシウダ・デ・エステではここよりも緊張したとは思うが、一人で歩いているということもあり、なかなか強烈な刺激を五感が感じ取っている。そして、強烈なアーバニティに溢れている。そのアーバニティは弱肉強食的な雰囲気が強いようなものだが、ちょっと東京などでは感じられないアーバニティである。むしろ、大阪の難波あたりとは共通するところがあるかもしれない。
いやはや、映画を観ては分からないジャクソン・ハイツの都市としての凄みを感じることができた。そして、夕食をここのラテン・アメリカ料理屋でしたのだが、ニューヨークに来て、初めて料金に見合うまともで満足できる料理を食べることができた。生活文化の質もここは、ニューヨークの他の地区よりは秀でているような気がする。強烈なオーセンティシティを感じる、オンリーワン的な街であった。大いにたまげた。
昨年、巨匠ワイズマンによる映画『ジャクソン・ハイツ』を見た。なかなか内容が濃い映画で、私は映画のトークショーにも渋谷、出町座と二回も出演した。しかし、ジャクソン・ハイツを訪れたことはなかったので、ブルックリンに来ているこの機会をうまく使って訪れた。
ジャクソン・ハイツは人口10万8千人のクイーンズのネイバーフッドである。住民の56%がヒスパニックでアジア系が22%、白人が17%、そしてアフリカ系は2%しかいないという面白い住民構成をしているネイバーフッドである。
ジャクソン・ハイツは20世紀前半にエベネザー・ハワードの田園都市の影響を受け、マンハッタンの高密度を回避したい中流から上流階級の人達を対象に、エドワード・マクダウガルのクイーンズボロ会社によって1917年の7号線(フラッシング線)の開通に合わせる形で1916年から区画整理がされた。つくられた住宅は、アングロ・サクソンのプロテスタントのみに提供され、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ギリシャ人、イタリア人は排斥された。
住民の構成が変わったのは大恐慌の後の1930年頃からである。マンハッタンの劇場関係者の同性愛者がここに住みつくようになり、マンハッタンの外では最大の同性愛者地区を形成する。ユダヤ人も1940年頃からは住むことが許可され、1950年以降はコロンビアの中流階層が母国の犯罪から逃れるように資本を持ってやってきて、ここにコミュニティをつくることになる。一方、ロング・アイランドの郊外開発が進む1960年以降は、ここに住みついていた白人層が、そちらの方に移住するようになる。いわゆるホワイト・フライトのような現象だ。1965年に移民改善法が成立し、家族を呼ぶことができるようになるとラテン・アメリカやインドの専門家達が、こぞって家族を呼び、ジャクソン・ハイツに居を構えるようになる。
1970年代半ばになると、ルーズベルト・アベニューがジャクソン・ハイツの商業センターになり、また組織的犯罪の拠点として全国レベルでの関心を呼ぶようになる。1970年代後半には、1年間で9人の殺害事件がここで起きる。1990年にプエルトリコ人の同性愛者であるフリオ・リベラがヘイト・クライムの被害者として殺害されると、大きなデモ活動が起き、それが今にも続くクイーンズ・プライド・パレードが始まるきっかけとなる。
1990年以降ニューヨーク市の治安が回復すると、ジャクソンハイツのコロンビアのコカイン関係の犯罪も減少していき、現在の多様な人々が住むネイバーフッドになっていく。
ジャクソン・ハイツのことをざっと整理すると、こんな感じになる。さて、ブルックリンのホテルからG号線と7号線を乗り継ぎ、82番街の駅で降りる。7号線はルーズベルト・アベニューの上を高架で走っているのだが、上を走っている時にはまったく気づかなかったような世界が駅を降りると展開している。いきなり、トウモロコシとシシカバブーを鉄板で温めながら売っている屋台が目の前に展開する。周りの店舗は、どぎつい原色の看板を立てており、それらの多くは英語ではない。スペイン語のものが多いが、アルファベットでないものもある。香港を彷彿させもするが、もっとさらに色彩はどぎつい感じがする。
ここがニューヨークであるとはとても思えない。というか、アメリカ合衆国とはとても思えない。それじゃあ、中南米か、と言われると決してそうでもない。ラテン・アメリカとインドなどの南アジアのテイストが混在している。高架の地下鉄が頭の上を走っているので、むしろブレードランナーの世界を彷彿する。
ここでは私はまったくの異邦人だ。この異邦人感覚は相当、強烈である。そして、ちょっと緊張もさせる。私はアフリカのルワンダや、マレーシアのスラヴェシ島、パナマやパラグアイなどにも行ったことがあるが、そのどこよりも緊張したかもしれない。いや、パラグアイのシウダ・デ・エステではここよりも緊張したとは思うが、一人で歩いているということもあり、なかなか強烈な刺激を五感が感じ取っている。そして、強烈なアーバニティに溢れている。そのアーバニティは弱肉強食的な雰囲気が強いようなものだが、ちょっと東京などでは感じられないアーバニティである。むしろ、大阪の難波あたりとは共通するところがあるかもしれない。
いやはや、映画を観ては分からないジャクソン・ハイツの都市としての凄みを感じることができた。そして、夕食をここのラテン・アメリカ料理屋でしたのだが、ニューヨークに来て、初めて料金に見合うまともで満足できる料理を食べることができた。生活文化の質もここは、ニューヨークの他の地区よりは秀でているような気がする。強烈なオーセンティシティを感じる、オンリーワン的な街であった。大いにたまげた。
揚州の料理屋で素晴らしいガストロミー体験をする [地球探訪記]
南京に来ている。そこで、揚州出身の先生に実家のある揚州の料理屋に連れて行ってもらった。そこは、地元のお客さんを対象にやっている庶民的な料理屋で、揚州料理専門であったのだが、相当、美味しい食事体験をすることができた。
お酒は老酒のような蒸留酒で46度という相当、強烈なものだったので時差ぼけがまだ取れていない私は遠慮がちに飲んだが、ガチョウの水煮(揚州では南京とちがってアヒルではなくガチョウを食べるらしい)、高菜と豆腐のようなものの炒め物、豚肉を蒸したもの、タケノコと豚の角煮とキクラゲのスープ、ニンニクの茎のようなものとベーコンを炒めたもの、川海老の煮物など、どれもが食材の美味しさを活かした美味しい料理であった。そして、締めは混ぜ麺と春菊と卵のスープ。
私は日頃から、日本食が圧倒的に世界で一番美味しいと考えている傲慢な輩であるのだが、たまに思わず、その高慢ちきな鼻をへし折られる経験をする時がある。それはタイのイーサン地方で絶品のローストチキンを食べた時、デリーで本場のインドカレー食べた時、ブエノスアイレスでピカーニャのステーキを食べた時などがそうだが、そのような鼻をへし折られる経験をすると謙虚な気持ちになるのと同時に、ちょっと美味しいものに出会えた幸運に感謝する気持ちにもなる。今日は、そんな日であった。衝撃的な素晴らしいガストロミー体験であった。ちなみに、私は残念ながらフランスでは、このような経験を一度もしたことがない。
<お店の外観>
<店の前の街並みはこんな感じ>
<ガチョウの塩水煮>
<何かの野菜の茎とベーコンの炒めもの>
<タケノコと豚の塩煮とキクラゲのスープ。絶品>
<混ぜそば>
<左がここの店主。真ん中にいるのは、我々をここに連れて行ってくれた大学教員>
お酒は老酒のような蒸留酒で46度という相当、強烈なものだったので時差ぼけがまだ取れていない私は遠慮がちに飲んだが、ガチョウの水煮(揚州では南京とちがってアヒルではなくガチョウを食べるらしい)、高菜と豆腐のようなものの炒め物、豚肉を蒸したもの、タケノコと豚の角煮とキクラゲのスープ、ニンニクの茎のようなものとベーコンを炒めたもの、川海老の煮物など、どれもが食材の美味しさを活かした美味しい料理であった。そして、締めは混ぜ麺と春菊と卵のスープ。
私は日頃から、日本食が圧倒的に世界で一番美味しいと考えている傲慢な輩であるのだが、たまに思わず、その高慢ちきな鼻をへし折られる経験をする時がある。それはタイのイーサン地方で絶品のローストチキンを食べた時、デリーで本場のインドカレー食べた時、ブエノスアイレスでピカーニャのステーキを食べた時などがそうだが、そのような鼻をへし折られる経験をすると謙虚な気持ちになるのと同時に、ちょっと美味しいものに出会えた幸運に感謝する気持ちにもなる。今日は、そんな日であった。衝撃的な素晴らしいガストロミー体験であった。ちなみに、私は残念ながらフランスでは、このような経験を一度もしたことがない。
<お店の外観>
<店の前の街並みはこんな感じ>
<ガチョウの塩水煮>
<何かの野菜の茎とベーコンの炒めもの>
<タケノコと豚の塩煮とキクラゲのスープ。絶品>
<混ぜそば>
<左がここの店主。真ん中にいるのは、我々をここに連れて行ってくれた大学教員>
南京を訪れる [地球探訪記]
大学の校務で南京を訪れる。南京は始めてである。というか、私は中国はチベットにしか、行ったことがなく、それ以外だと北京空港のそばでトランジットで1泊したぐらいなので実質的には初中国である。
さて、南京に飛行機で着陸するちょっと前あたりから、何か空気に異臭が漂っているような気がしてきた。いや、機内に外気が入る筈はないのだが、なんか臭い。これは大気汚染のためかな、と思ったりもするのだが、偶然かどうかは不明だ。とはいえ、私が1970年代に住んでいたロスアンジェルスを彷彿させるように大気は汚染されている。
南京国際空港は、関西国際空港より遙かに立派で風格があった。空港だけみれば、南京の方が大阪より遙かに先進的で進んでいるような印象を受ける。その後、同僚の先生の知り合いの中国の先生の車でホテルまで向かう。ホテルは南京の繁華街の中心にあるようで、周りは多くのレストランやお店が立地している。この商店街は最近、自動車の流入が禁止され、歩行者だけが歩くことができる。その空間は、森ビルが開発した六本木ヒルズのようであるが、民間の開発のマーケティング的いやらしさはそれほどなく、そこに立地している屋台は地域性をプンプンと発している。それでいて、空間デザインは洗練されている。日本の都市よりどちらかというと、アメリカの都市のそれと近い。サンタモニカのサード・アヴェニューみたいなイメージだ。
この商店街にあるナイト・マーケット的な屋台で、鴨の血でつくられた豆腐、小籠包、雲呑スープなどを食す。紙の容器で出されてきた料理は、相当、観光客向けのチープなものだと思われるが、いや、なかなかいける。二週間ほど前にいたパリより味という観点ではレベルが高いと思わせる。
その後、ちょっとした運河を巡るクルーズのような観光船に乗る。これは45分間、運河を周遊するものであるが、ほとんどディズニーランドのジャングル・クルーズのようなノリであった。とはいえ、初めて南京を訪れた私は結構、楽しめた。
中国は初めてであったが、台湾には何回も足を運んだことがあるので、基本、台湾と似ている印象を受けた。もちろん、よりよく知れば違いが見えてくるのかもしれないが、戦後、つくられたと思われる建物などにも共通点が見られる。
これまで主に研究的観点から、中国というパンドラの箱を開けたら、もう余生を考えると、絶対消化しきれないと避けていたところがあったが、来たらまた好奇心がむくむくと湧いてきた。本当、今、欲しいものは時間と集中力である。
<21世紀になってから、この商店街からは自動車が排除された>
<ちょうど提灯祭りがやられている時に訪れたようだ>
<これは鶏肉ではなくアヒル肉を蒸したもの>
<観光船の乗船場。ライトアップやネオンによって鮮やかに夜の街が照らされている>
<運河を周遊する観光船からの光景。若干、テーマパーク感が強い>
さて、南京に飛行機で着陸するちょっと前あたりから、何か空気に異臭が漂っているような気がしてきた。いや、機内に外気が入る筈はないのだが、なんか臭い。これは大気汚染のためかな、と思ったりもするのだが、偶然かどうかは不明だ。とはいえ、私が1970年代に住んでいたロスアンジェルスを彷彿させるように大気は汚染されている。
南京国際空港は、関西国際空港より遙かに立派で風格があった。空港だけみれば、南京の方が大阪より遙かに先進的で進んでいるような印象を受ける。その後、同僚の先生の知り合いの中国の先生の車でホテルまで向かう。ホテルは南京の繁華街の中心にあるようで、周りは多くのレストランやお店が立地している。この商店街は最近、自動車の流入が禁止され、歩行者だけが歩くことができる。その空間は、森ビルが開発した六本木ヒルズのようであるが、民間の開発のマーケティング的いやらしさはそれほどなく、そこに立地している屋台は地域性をプンプンと発している。それでいて、空間デザインは洗練されている。日本の都市よりどちらかというと、アメリカの都市のそれと近い。サンタモニカのサード・アヴェニューみたいなイメージだ。
この商店街にあるナイト・マーケット的な屋台で、鴨の血でつくられた豆腐、小籠包、雲呑スープなどを食す。紙の容器で出されてきた料理は、相当、観光客向けのチープなものだと思われるが、いや、なかなかいける。二週間ほど前にいたパリより味という観点ではレベルが高いと思わせる。
その後、ちょっとした運河を巡るクルーズのような観光船に乗る。これは45分間、運河を周遊するものであるが、ほとんどディズニーランドのジャングル・クルーズのようなノリであった。とはいえ、初めて南京を訪れた私は結構、楽しめた。
中国は初めてであったが、台湾には何回も足を運んだことがあるので、基本、台湾と似ている印象を受けた。もちろん、よりよく知れば違いが見えてくるのかもしれないが、戦後、つくられたと思われる建物などにも共通点が見られる。
これまで主に研究的観点から、中国というパンドラの箱を開けたら、もう余生を考えると、絶対消化しきれないと避けていたところがあったが、来たらまた好奇心がむくむくと湧いてきた。本当、今、欲しいものは時間と集中力である。
<21世紀になってから、この商店街からは自動車が排除された>
<ちょうど提灯祭りがやられている時に訪れたようだ>
<これは鶏肉ではなくアヒル肉を蒸したもの>
<観光船の乗船場。ライトアップやネオンによって鮮やかに夜の街が照らされている>
<運河を周遊する観光船からの光景。若干、テーマパーク感が強い>
タグ:南京
シンガポールの物価は高い [地球探訪記]
シンガポールに来ている。スターバックスに入ったら、カフェラテのトールが660円くらいであった。これは、ダウンタウンの店だったのでもしかしたらちょっと高めであったかもしれないが、京都であれば399円だ。随分と高いな。お昼にシンガポール川沿いにあるお店に入る。ランチ・メニューを教えてくれ、と尋ねると、「ランチ・メニューは二人から」という恐ろしくいい加減な、日本人の観光客だから馬鹿にしているな的な対応をしたので、その店を出たのだが、そこで注文したペリアも5ドル(500円ぐらい)であった。これは、明らかに日本より物価が高い。高いが、料理は美味しい訳ではない。このような状況であったら、日本への観光客は本当、物価が安くて感動するだろう。この物価の差がアジアから多くの観光客を日本に呼び込んでいる要因ではないだろうか。バブルの時代には信じられないような状況に日本はある。すなわち、物価が安い国という位置づけである。ちなみに、これは日本国民にとっては信じられないくらい恵まれていることではないかと思う(海外旅行に行かなければ)。
シンガポールのシャンギ国際空港で朝食を取る [地球探訪記]
シンガポールのシャンギ国際空港にて朝食を取る。注文したのはセット・メニューで8ドル。およそ800円ぐらいか。これは中華麺に魚団子、卵、ハム(なぜか)、キノコなどが入っており、小魚で出汁を取っている。私はマレーシアに一年間ぐらい住んでいたことがあるが、当時、この中華麺が好きであった。日本でも、たまにこのマレーシア・スタイルの麺に出会うことができるが美味しいと思う。さて、そういうものを期待していて注文したのだが、出てきた麺はインスタント・ラーメンのそれであった。何じゃこりゃ、と思いつつ、まあインスタント・ラーメンとかはつくるの便利だから、易きに流れてしまうのかなとも思ったりした。また、一方で、こういう麺を食べていたら、なんで東アジアや東南アジアの人が日本のラーメンを好きになるのかも理解できるような気がした。しかし、喜多方ラーメンなどを始めとして、ラーメンは明治以降、中国から持ち込まれたものなんだけどなあ。ものづくりに拘る風土、それをささえるマーケットが今の日本のラーメンの高いレベルをつくったのではないかと、シャンギ国際空港のインスタント・ラーメンの麺を食べながら考えた。
(このヘンテコな朝食セットがシンガポール8ドル)
(このヘンテコな朝食セットがシンガポール8ドル)
オートバーンで三両ほど先を走っていたトラックが横転する [地球探訪記]
ライプツィヒからライプツィヒ・ハレ空港へバスでオートバーンで向かう途中、あと空港まで5キロぐらいのところで三両ほど先を走っていたトラックが横転した。幸い、運転席は横転しなかったので運転手は無事かと思うが、二車線のオートバーンの両方とも塞ぐことになってしまった。飛行機が出発する時刻までには、まだ3時間ぐらいはあったが、パトカーが来て現場検証して、それからトラックを移動させて他の車が通れるようになるには2時間以上はかかるであろう。これは万事休す、という状況になった。トランクを持って歩いていくには遠すぎる。ただ、不幸中の幸いだったのは300メートルぐらいのところでオートバーンと立体交差している道路があることだった。しかも、その道路はオートバーンと交差するところで階段もある。ということで、そこまでトランクを持って歩いて行き、タクシーを呼んでどうにか空港まで行くことができた。
あと3分ぐらい早く走っていればまったく問題なく、空港に到着できただろうが、あと1分早く走っていれば横転に巻き込まれたかもしれない。そして、せっかくちゃんと空港に着いたのにフランクフルトへの接続便は30分ほど遅れて出発した。トランジットの時間がそもそも1時間と短かったのでハラハラさせられたが、幸いにして、通関が驚くほど早く、しかも荷物検査もなかったのでゲートが開く前に着くことができ、無事に日本に向かうことができた。
まあ、激しい一日だったがどうにか切り抜けたな、と思っていたらビジネスクラスのリクライニング・シートの間に愛機のiPadを落とし、シートを動かして取ろうとしたら割れてしまった。これは痛恨だ。今回の旅行は出発時は、関西国際空港へ行く途中のバスで鞄のチャックが全破壊し、帰国時は「お友達」と呼んで、愛用していたiPadが壊れてしまった。まあ、激しい旅行ではあったが、どうにか戻ってくることができた。
あと3分ぐらい早く走っていればまったく問題なく、空港に到着できただろうが、あと1分早く走っていれば横転に巻き込まれたかもしれない。そして、せっかくちゃんと空港に着いたのにフランクフルトへの接続便は30分ほど遅れて出発した。トランジットの時間がそもそも1時間と短かったのでハラハラさせられたが、幸いにして、通関が驚くほど早く、しかも荷物検査もなかったのでゲートが開く前に着くことができ、無事に日本に向かうことができた。
まあ、激しい一日だったがどうにか切り抜けたな、と思っていたらビジネスクラスのリクライニング・シートの間に愛機のiPadを落とし、シートを動かして取ろうとしたら割れてしまった。これは痛恨だ。今回の旅行は出発時は、関西国際空港へ行く途中のバスで鞄のチャックが全破壊し、帰国時は「お友達」と呼んで、愛用していたiPadが壊れてしまった。まあ、激しい旅行ではあったが、どうにか戻ってくることができた。
TUMIのバッグは頑丈だが、チャックから壊れていく [地球探訪記]
朝の5時50分に大津市にある研修所のロビーに集合して、24名の団体を率いて、そこから関西国際空港へバスで向かう途中、よりによって私のTUMIのバックパックのチャックが壊れた。TUMIのバックパックはチャックによって鞄が四角形の一つの辺のみで繋がるようなデザインになっている。すなわち、チャックが壊れると、このバックパックはほぼ二つに完全に分離されてしまうので、もうバックパックとして背負うことは完璧に不可能になってしまうのだ。とはいえ、他にも肩掛けの荷物も持っているので、まさかバックパックを手で持って移動することもできない。これは万事休すの事態だ。しかも、私は引率者としての立場なので、勝手に行動することもできない。どうしようか、と思いつつ、とりあえずチェックインをした。幸い、ゲート集合時間まで30分ぐらい時間があり、何人かは両替をしなくてはならないので、私にも新しい鞄を物色する時間ができた。まだ午前9時ということで、店が開業しているか心配であったが、さすが関西国際空港。もうほとんどの店が開いていた。鞄というかスーツケース屋もあり、そこで似たような鞄を買うことにした。壊れたTUMIは同じ型のものを3代も使っていたのだが、いつもチャックが壊れるので4代目を買うのを躊躇したのと、とりあえず臨時用ということなので、比較的安いものを買うことにした。ちなみに、このお店の売り子のお姉さんのサービスはもう驚くほどよかった。買物をして感動を覚えるぐらいであった。
TUMIは結構、私でなくても贔屓している人が多いと思う。防犯チョッキをつくっていた会社ということでそのつくりが頑丈というのが売りで、その点は確かにそうだと思うのだが、チャックが駄目だ。まあ、防犯チョッキにはそれほどチャックは関係ないかもしれないが、ちょっと私のTUMI贔屓も修正した方がいいかもしれないと今回の事件で思ったりした。
TUMIは結構、私でなくても贔屓している人が多いと思う。防犯チョッキをつくっていた会社ということでそのつくりが頑丈というのが売りで、その点は確かにそうだと思うのだが、チャックが駄目だ。まあ、防犯チョッキにはそれほどチャックは関係ないかもしれないが、ちょっと私のTUMI贔屓も修正した方がいいかもしれないと今回の事件で思ったりした。
イエテボリの空港から都心へはシャトルバスの利用が便利ではないだろうか [地球探訪記]
海外の都市に行っていつも悩ましいのが、空港から都心へのアクセスである。手っ取り早いのはレンタカーだが、大学関係の出張だとレンタカーを借りるのが面倒臭い。アメリカの都市でも出来れば公共交通で都内に入りたい。さて、しかし、公共交通も軌道系だとどこに行くのかがすぐ分かるが、バスだとなかなか厳しい。これは、空港とのシャトルバスでもそうだ。ホテルがバスの停留所のそばであればいいが、そうでなければもう重い荷物を抱えて、見ず知らずの都市で呆然とすることになる。昔、サラリーマンの頃はタクシーを使っていたが、大学の教員になってからは本当、滅多にタクシーは使わなくなった。
さて、そこでイエテボリである。イエテボリは2009年にも来たことがあるので二回目になるのだが、その時はコペンハーゲンから鉄道で来たので空港を使うのは初めてである。なんとなく、北欧の都市であるので空港とは鉄軌道で結ばれているだろうと思っていたら、当てが外れた。とはいえ、タクシーは抵抗がある。ということで、シャトルバスというか空港バスに乗った。中央駅が終点であるということで、中央駅からホテルには歩いて行けることは事前に調べておいたからだ。
さて、このシャトルバスだが、ほぼ15分置きに出発しており、車内は決して綺麗という訳でもないが、無料のネットに繋がったりするのは嬉しい。値段は105クローネで、これは日本円からすれば安くはないかもしれないが、こちらの物価を勘案すると安いと思われる。所要時間は40分弱。パンフレットだと30分弱と書いてあったりしているので要注意だ。都心行きは駅前で降ろしてくれたが、乗車する時は中央駅に隣接している長距離バスターミナルから出発する。このバスターミナルの入り口にあたるとこに切符売り場もある。イエテボリに行かれる人はこの情報を参考にしてもらえればと思い、ちょっと記事としてアップさせてもらう。
さて、そこでイエテボリである。イエテボリは2009年にも来たことがあるので二回目になるのだが、その時はコペンハーゲンから鉄道で来たので空港を使うのは初めてである。なんとなく、北欧の都市であるので空港とは鉄軌道で結ばれているだろうと思っていたら、当てが外れた。とはいえ、タクシーは抵抗がある。ということで、シャトルバスというか空港バスに乗った。中央駅が終点であるということで、中央駅からホテルには歩いて行けることは事前に調べておいたからだ。
さて、このシャトルバスだが、ほぼ15分置きに出発しており、車内は決して綺麗という訳でもないが、無料のネットに繋がったりするのは嬉しい。値段は105クローネで、これは日本円からすれば安くはないかもしれないが、こちらの物価を勘案すると安いと思われる。所要時間は40分弱。パンフレットだと30分弱と書いてあったりしているので要注意だ。都心行きは駅前で降ろしてくれたが、乗車する時は中央駅に隣接している長距離バスターミナルから出発する。このバスターミナルの入り口にあたるとこに切符売り場もある。イエテボリに行かれる人はこの情報を参考にしてもらえればと思い、ちょっと記事としてアップさせてもらう。
成田空港発のフライトにぎりぎり乗ることに成功する [地球探訪記]
成田空港9時50分発のフライトに乗ることになった。フィンランド航空である。3月に自動車を購入したので、それで行こうと考えた。これは、自動車で行くのが時間的にも速いし、また重い荷物を持っていくには好都合であるからだ。さて、しかし、免許証が入っている名刺入れが見つからない。家捜しをしたのだが、全然出てこない。無免許運転をするのは流石に抵抗があったので、タクシーで品川まで行き、そこから成田エクスプレスで行こうと判断して、家を出る。しかし、家のそばを走るバス通りは、通常はタクシーがすぐ拾えるのだが、どうも拾えそうにない。これは、不味い事態だ、ということで都立大学の駅まで歩いて行く。まだ7時なので幸いそれほど混んでない。さて、東横線に取りあえず乗ってから、路線検索をした。すると、都立大学→中目黒→恵比寿→品川→成田空港(成田エクスプレス)を推奨してくる。ただ、これだと8時58分着になる。流石に一時間を切ってのチェックインは不味い。そこで、一つ前のをみると、都立大学→中目黒→上野→成田空港(新京成)が出てくる。これだと8時45分に着くので、ちょっとは早い。ぎりぎり一時間前に着くことができる。ただし、中目黒を7時11分発の日比谷線に乗らなくてはならない。これは万事休すか。しかし、この路線検索だと上野駅の乗り換え時間に13分ほど取っている。私が乗ることになる日比谷線は7時16分発なので5分ほど遅い。とはいえ、急いで乗り換えれば8分でどうにかなるだろうと思った。
さて、ただ日比谷線の上野駅から京成上野駅まではちょっと距離がある。失敗は出来ないということでネットで地図をみる。若干の不安がある。切符を購入する手間などを考えると8分というのは短いのではないか。できれば日暮里駅で乗り換えた方がスムーズなのではないか。しかし、日比谷線の上野駅からJRの上野駅に乗り換えて、さらに日比谷駅で乗り換えるとなると、これはもう間に合わないであろう。日比谷線は人形町とか八丁堀とかに寄るなど、上野駅に行くのに相当、遠回りをする。できれば日暮里駅、上野駅どちらに行くにしても日比谷線ではないルートを取った方がいいであろう。銀座線も日比谷線ほどではないが遠回りであるのと、何しろ駅数が多い。霞ヶ関駅か日比谷駅で降りてすぐタクシーが拾えればいいが、拾えなかった場合はもう観念しないといけない。
そこで路線検索には出てこないルートであったが、日比谷駅から有楽町駅まで歩くというルートを考える。これは日比谷(有楽町)から上野駅までの駅数が山手線の方がずっと少ないからである。乗り換えのロス、電車の待ち時間という要素はあるが、それでもここはギャンブルすべきでないかと考えた。なるべく前の車輌に移動して、トランクを持ったまま、日比谷駅から有楽町駅まで走った。これは55歳という年齢には相当キツかったが、どうにか7時39分の山手線に乗ることができた。有楽町から日暮里までは14分なので、これだと7時53分に着く。日暮里駅発は8時5分なので間に合うだろうとちょっとホッとする。日暮里駅でチケットを買うのに時間はかかるのが心配であったが、この日は比較的スムーズに購入することができた。念のために、成田空港のチェックインカウンターに電話をしようとしたのだが、成田空港の代表に電話をしても、そのような電話番号は教えないとのこと。フィンランド航空の東京事務所に連絡したらが、営業時間外という録音テープを聞かされるだけであった。
成田空港ではほぼぎりぎりであったが、ちょうど一時間前にチェックインができ、無事、荷物を預けることもできた。ということで、路線検索で間に合わなくても、いろいろと工夫をすれば、それよりも早い時間で目的地に到達することを今日は身をもって証明したような気分である。ということで、ブログに記させてもらう。
さて、ただ日比谷線の上野駅から京成上野駅まではちょっと距離がある。失敗は出来ないということでネットで地図をみる。若干の不安がある。切符を購入する手間などを考えると8分というのは短いのではないか。できれば日暮里駅で乗り換えた方がスムーズなのではないか。しかし、日比谷線の上野駅からJRの上野駅に乗り換えて、さらに日比谷駅で乗り換えるとなると、これはもう間に合わないであろう。日比谷線は人形町とか八丁堀とかに寄るなど、上野駅に行くのに相当、遠回りをする。できれば日暮里駅、上野駅どちらに行くにしても日比谷線ではないルートを取った方がいいであろう。銀座線も日比谷線ほどではないが遠回りであるのと、何しろ駅数が多い。霞ヶ関駅か日比谷駅で降りてすぐタクシーが拾えればいいが、拾えなかった場合はもう観念しないといけない。
そこで路線検索には出てこないルートであったが、日比谷駅から有楽町駅まで歩くというルートを考える。これは日比谷(有楽町)から上野駅までの駅数が山手線の方がずっと少ないからである。乗り換えのロス、電車の待ち時間という要素はあるが、それでもここはギャンブルすべきでないかと考えた。なるべく前の車輌に移動して、トランクを持ったまま、日比谷駅から有楽町駅まで走った。これは55歳という年齢には相当キツかったが、どうにか7時39分の山手線に乗ることができた。有楽町から日暮里までは14分なので、これだと7時53分に着く。日暮里駅発は8時5分なので間に合うだろうとちょっとホッとする。日暮里駅でチケットを買うのに時間はかかるのが心配であったが、この日は比較的スムーズに購入することができた。念のために、成田空港のチェックインカウンターに電話をしようとしたのだが、成田空港の代表に電話をしても、そのような電話番号は教えないとのこと。フィンランド航空の東京事務所に連絡したらが、営業時間外という録音テープを聞かされるだけであった。
成田空港ではほぼぎりぎりであったが、ちょうど一時間前にチェックインができ、無事、荷物を預けることもできた。ということで、路線検索で間に合わなくても、いろいろと工夫をすれば、それよりも早い時間で目的地に到達することを今日は身をもって証明したような気分である。ということで、ブログに記させてもらう。