保坂展人著『88万人のコミュニティデザイン』 [書評]
世田谷区長の保坂展人によるエッセイ本。基本、保坂氏のこれまで世田谷区で実施してきた政策を自慢気に披露する、いかにも政治家によるエッセイ本であるが、不思議とそれほど嫌味に感じられない。それは、保坂氏が誠実に問題に取り組んできたためではないか、と思われる。区長になったからといって、いろいろとマニフェストで掲げた政策が具体化できる訳ではない。議会によっていろいろと手足が縛られることだって多い。ただ、三選を果たして、随分とその裁量度は増えてきたし、やれることも増えてきたかと思われる。保坂氏のアイデンティティは「内申」による苛めというか暴力によって、大きく将来の可能性が狭まれたという被害経験を源としている、と思われる。それゆえに冤罪の被害者やマイノリティ、若者へと心を寄せる。このような「苛められっ子」が政治をしていることは、実は結構、いいと思うのである。安倍や麻生、二階といったいかにも「苛めっ子」が牛耳る日本政府と比べると、ずっと保坂氏の方がましな政治家なのではないか、とこの著を読んで改めて感じた。
『物語 フィンランドの歴史』を読み、ロシアはウクライナ戦争と同じことを100年前にもしていたことを知る [書評]
フィンランド研究者の著者による『物語 フィンランドの歴史』。フィンランドには4回ぐらい訪れたことがある。なんか知った気になっていたのだが、実は全然、その歴史などは知っていないことを改めて気づかされた。ただ、フィンランドがスウェーデンの植民地であり、その後、ロシアの属国になっていたという歴史ぐらいは知っていたのだが、ロシアの横暴ぶり、大国としての理不尽な数々の要求と仕打ち。なんだ、ウクライナ戦争で随分とロシアはデタラメをするな、と憤慨していたが、昔からこういうことを隣国ではやっていた、むしろお家芸ということをこの本から学ぶことができた。日本はたまたま日露戦争でロシアをやっつけたので過小評価をしていたのだが、もう相手が攻撃したとかいちゃもんをつけて戦争をおっぱじめることとか、不可侵条約などの約束を破ることなどは日常茶飯事だ。というか、なんでこんな国と条約を結ぼうと思うのかね。こんな国から北方領土、戻ってくる訳ないね、ということもフィンランドの歴史から理解することができる。本書は、フィンランドの歴史を知るために有益であるのは勿論だが、ロシアという国を理解するうえでも、そして現在のウクライナ戦争をなぜ、ロシアが仕掛けるかも理解することに通じる貴重な著書であると思う。
物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年 (中公新書)
- 作者: 石野 裕子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/10/18
- メディア: 新書
町村敬志『都市に聴け』 [書評]
一橋大学の名誉教授である町村敬志の2020年12月に出された著書。大学を退官される前に出された本であり、彼の都市社会学研究のエッセンスが盛り込まれており、大変、読み応えがある。アーバン・スタディーズという研究分野がどのようなものであるか、非常に分かりやすく、書かれている。また、過去ではなく、それらの研究実績を踏まえて、コロナ後の未来の都市像をも照射している点が、これからこの道を進む若い読者にとって勇気づけるような内容となっている。著者の誠実な人柄、そして研究者としての造詣の深さを改めて知ることができる名著である。
記号論講義 [書評]
本書は11の章を通じて、我々の日常生活をつくりだす記号の働きと意味の経験を考察し、記号現象を読み解く方法のいくつかを提示したものである。我々を取り巻くものは、記号としての存在を強めている。そのような記号が存在感を増す中、我々はセミオ・リテラシーを獲得すべきであるのだが、本書は、そのリテラシー能力を高めるうえで、非常に効果的なのではないかと思われる。
本書によれば、意味環境としての人間の文明は、「記号」・「社会」・「技術」という3つの次元のトポロジカルな相互連関において理解される。現在は「記号」と「技術」の組み合わせが更新され、「社会」そのものが大きく変化し、「知」が変容する。それが、文字と書物を基礎単位とする古典的な知の時代を終焉させ、文字、画像、動画、音声など、多様な記号を認識の単位とするような知がこれから求められる。そのような「知」が模索される中、「記号の知」をしっかりと理解することの重要性が本書から理解することができた。
先日、あるシンポジウムで、パネリストで同席した先生が、出版社が減っていることを大いに嘆いていた。ただ、そのような時代の変化を嘆くより、文字が記号としての優越性を持っていた状況が変化し、書物というメディアの優越性も失われつつある中、我々は新しく台頭する記号に応じて「知」を変容させることが必要だ。大学の教員であれば、なおさら、そのような変化に先んじることが求められると思うのだ。それは、シンポジウムでこの先生の話を聞いていた時も思っていたことだが、本書を読み、それが確信となった。時代に取り残されないためにも読んだ本がいいかと思う。
本書によれば、意味環境としての人間の文明は、「記号」・「社会」・「技術」という3つの次元のトポロジカルな相互連関において理解される。現在は「記号」と「技術」の組み合わせが更新され、「社会」そのものが大きく変化し、「知」が変容する。それが、文字と書物を基礎単位とする古典的な知の時代を終焉させ、文字、画像、動画、音声など、多様な記号を認識の単位とするような知がこれから求められる。そのような「知」が模索される中、「記号の知」をしっかりと理解することの重要性が本書から理解することができた。
先日、あるシンポジウムで、パネリストで同席した先生が、出版社が減っていることを大いに嘆いていた。ただ、そのような時代の変化を嘆くより、文字が記号としての優越性を持っていた状況が変化し、書物というメディアの優越性も失われつつある中、我々は新しく台頭する記号に応じて「知」を変容させることが必要だ。大学の教員であれば、なおさら、そのような変化に先んじることが求められると思うのだ。それは、シンポジウムでこの先生の話を聞いていた時も思っていたことだが、本書を読み、それが確信となった。時代に取り残されないためにも読んだ本がいいかと思う。
記号論講義 ――日常生活批判のためのレッスン (ちくま学芸文庫)
- 作者: 英敬, 石田
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2020/07/10
- メディア: 文庫
井上章一『関西人の正体』 [書評]
井上章一氏が1993年から1995年に記したエッセイをまとめた本の文庫本。既に著書の他の本を読んでいたので新しい発見はほとんどない。というか、これが元ネタだったんだ、ということが分かった。結構、他の本でもこの内容に類することが書かれていて、そういう意味ではまず、この本から読むといいのかもしれない。最近はしっかりと読んでいる訳ではないが、演歌歌手が似たようなセトリで歌い続けている、という印象を覚える。いや、少なくとも半分ぐらいの「持ち歌」は、この本に書かれているような気がする。個人的には、それでも著者の文体とか、見方が面白いのでいいが、それらはちょっとアレンジを変えて演奏しているものを新しいCDで出しているというようなものである。まあ、それが悪い訳ではないが、内容はほぼ同じだったのだな、ということが本書を読んで理解できた。
タグ:関西人の正体
『発酵野郎』鈴木成宗 [書評]
クラフトビールの雄「伊勢角屋ビール」の社長による著書。伊勢角屋ビールは、日本企業初のAustralian International Beer Awardsの金賞を受賞するなど、世界からも高評価を受け、日本にも多くのファンを持つ人気クラフトビールである。さて、しかし、その成功への道のりはまさに紆余曲折。著者の型破りな性格と、酵母へのただらなぬ愛情、そしてビールへの思いは読者をぐいぐいと引き寄せる。私も、実は一度鈴木社長に知り合いの先生の取材のお付き合いで同行し、お会いさせていただいたことがある。極めて魅力的な人柄であることはそのとき、理解したが、こんないろいろと体験をされていた方だとはこの本を読んで改めて知った。クラフトビールへの著者の愛情がこちらにも伝わり、猛烈にビールを飲みたくなるような本でもある。
『耳と感性でギターが弾ける本』トモ藤田 [書評]
最近、ユーチューブでギターをはじめとした楽器の演奏の仕方を教える動画が多い。私もこれらは大変、重宝している。その中でも最も参考になり、勉強になっているのが、この著者のトモ藤田氏の動画である。彼は、あの泣く子も黙るバークリー音楽大学のギター科の先生である。あの、泣く子も黙る現代三大ギタリストのジョン・メイヤーの師匠ということでも知られている。そのトモ藤田氏が書いた本が『耳と感性でギターが弾ける本』である。楽譜、タブ譜はまったくなく、ギターをどう練習し、どういう姿勢で臨むといいのか、という心構えが書かれているのだが、これが大変ためになる。ギターの基礎練習の大切さはもちろんのこと、CDの聴き方とかまで教えてくれる。私は、この本を読んでしっかりとした練習の大切さを知り、早速、ギター学校に申し込んだ。そのギター学校を選んだ理由は、トモ藤田の教え子であり、トモ藤田からの推薦がホームページに書かれているからだ。ということで、まさに目から鱗的な内容で、ギターが上手くなりたいと思っている人は是非とも手に取るといいと思う。楽譜が多くある教則本よりギターの上達は早くなるような本であると思われる(それが分かるのは1年後ぐらいはかかるだろうが)。
カール・グルーバー『ドイツの都市造形史』 [書評]
カール・グルーバの「ドイツの都市の歴史」の訳本を読む。なぜ「Die Gestalt der deutschen Stadt」がドイツの都市造形史に意訳されたのであろうか。著者の確かに内容はドイツの都市の歴史の中でも都市造形に関わっているかもしれないが、この本の肝は、中世、ルネッサンス、19世紀という大きく3つに分類された時期ごとに、どのようにしてドイツの都市がつくられ変容していったのかを教会、大聖堂、塔といったランドマークや建築要素(例えば窓)ごとに記述していることである。あえて、意訳をする意味があるのだろうか。
著者の恐ろしいほどの造詣の深さには、おったまげさせられる。そして、都市のスケッチが多いのだが、これが大変興味深く、面白い。ただ、私のようにドイツに生活し、旅行しまくって都市を知っている読者はある程度、フォローはできるが、そのような前知識がないと、相当、分かりづらい本であるような印象を受ける(もちろん、ドイツ人が読者対象なので、分かりづらいのは日本人であるからだけなのだが)。あと、翻訳はひどい。読むのが辛くなるような日本語である。しかし、それでも最後まで読めたのは、本の内容が濃いからである。私はこれを読み終わった後、原著を注文した。
著者の恐ろしいほどの造詣の深さには、おったまげさせられる。そして、都市のスケッチが多いのだが、これが大変興味深く、面白い。ただ、私のようにドイツに生活し、旅行しまくって都市を知っている読者はある程度、フォローはできるが、そのような前知識がないと、相当、分かりづらい本であるような印象を受ける(もちろん、ドイツ人が読者対象なので、分かりづらいのは日本人であるからだけなのだが)。あと、翻訳はひどい。読むのが辛くなるような日本語である。しかし、それでも最後まで読めたのは、本の内容が濃いからである。私はこれを読み終わった後、原著を注文した。
井上章一『大阪的 「おもろいおばはん」はこうしてつくられた』 [書評]
井上章一が産経新聞で連載していた「井上章一の大阪まみれ」を元原稿とした、大阪に貼られた様々なレッテルを検証した文章と、過小評価されている大阪の個性を取り上げた文章、そしてあまり知られていない大阪の歴史とからなるエッセイ集。前者は「大阪人はおもしろいのか?」「阪神ファンは昔からいたのか?」「大阪のエロい街という評判はどうつくられたのか?」、過小評価された大阪の個性は「大阪には美人が多い」(なんせ著者は美人研究家であるからして)、「音楽の都」、「グルメ都市」、そして知られていない大阪としては「アメリカとの関係」、「一般的な日本史理解から隠蔽されている大阪」が取り上げられている。基本、大阪の偏見などは東京(江戸)によってつくられており、不当に過小評価されていて、見下されている。それに対する大阪の怨嗟のようなものが、大阪人ではない著者が人ごとのように距離を置いて語っているのが、この本の特徴であろう。
個人的には「阪神ファン」は在阪のラジオが試合を中継するようになってから増えたことや、グルメ都市大阪の本領みたいなところは興味深かった。
また、全般的に人口は減りつつあるとはいえ、1億2千万人もの巨大な人口を擁し、経済的にも文化的にも成熟している国が、中央集権的な運営をしていることが、大阪という大都市圏でみればニューヨークやパリやロンドンよりも巨大な世界都市を二流に機能させていることの地域的だけではなく、国家的損失が表層的なサブカルチャーでも現れていることが分かり、興味深く読むことができた。ちなみに私は東京ものである。
個人的には「阪神ファン」は在阪のラジオが試合を中継するようになってから増えたことや、グルメ都市大阪の本領みたいなところは興味深かった。
また、全般的に人口は減りつつあるとはいえ、1億2千万人もの巨大な人口を擁し、経済的にも文化的にも成熟している国が、中央集権的な運営をしていることが、大阪という大都市圏でみればニューヨークやパリやロンドンよりも巨大な世界都市を二流に機能させていることの地域的だけではなく、国家的損失が表層的なサブカルチャーでも現れていることが分かり、興味深く読むことができた。ちなみに私は東京ものである。
大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた (幻冬舎新書)
- 作者: 井上章一
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2018/11/29
- メディア: Kindle版
麺の歴史 [書評]
伝承料理研究家の奥村彪生の著書。即席麺である「チキンラーメン」を開発した安藤百福が監修をしている。「麺の歴史」ということで、大きく麺類全般を取り上げてはいるが、その焦点は「ラーメン」に絞られている。これは、もはや国民食である「ラーメン」だが、それがどこから来たか、という問いにはなかなか答えられず、多くの謎と推理があるからだ。そして、その解明しようとする過程の中で、いろいろと見えてくる。まず「ラーメン」という言葉が中国にはなく、なぜ「ラーメン」という言葉ができたのか、ということなのである。そして、ラーメンを通じて、東アジアの食の文明史のようなものが展望でき、非常に面白い内容の本である。著者の造詣の深さには驚く。
『都市政策の思想と現実』宮本憲一 [書評]
政治経済学者であるが、都市論者の泰斗である宮本憲一氏の著書。1980年に出された『都市経済論』という名著が、既に絶版となっているので、それに代わる本としては、これはお勧めであろう。たいへん分かりやすく、論理的な文章に理解は進むが、誤字は多い。ブラジルのクリチバがチリチバになっていたり、ちょっと笑えない誤字が特に後半部には少なくない。また、私は宮本氏を敬愛しているので、彼に過ちはないと思いたいのだが、「ドイツは日本と同じように持ち家主義であり、主として民間に供給をまかせている」(p.238)という明らかな事実誤認もある。ドイツは持ち家率が3割台で、旧東ドイツは特に賃貸が顕著であるが、旧西ドイツでも戸建て住宅はともかく、集合住宅はほとんどが賃貸である。ただ、そのような重箱の隅をほじくると出てくるミスはあるが、400ページに及ぶこの本は、日本の都市政策を相当、範囲、網羅しており、政策学部の大学生は読むべき著書であることは間違いない。
『AKIRA』を久し振りに読んで、やはりそれほど感心しない [書評]
『AKIRA』は1982年から1990年にかけてヤング・マガジンに連載されていた大友克洋の漫画である。私はちょうど大学時代と被ったりもしたので、結構、連載中も読んでいた。とはいえ、ヤング・マガジンはたまに買うか、喫茶店とかで読むぐらいであったので集中して読んでいた訳ではない。あとで単行本も買ったりしたが、全巻揃えず、最初の三巻ぐらいであったかと思う。
さて、しかし私のそのような関心のなさとは世間の評価はまったく異なり、『AKIRA』は日本の漫画の金字塔的位置づけにある。ハリウッドでも実写版映画が企画されて、本来であれば今年、公開予定であった。原作がつくられてから40年経っても、この人気というのは凄まじいものである。私も五十嵐太郎の著書を読んでいたら、やたら『AKIRA』の引用が多いので、改めて1巻から6巻までを購入して、一気読みをしてみた。
その感想であるが、やはり40年前と同じであまり感心しなかった。いや、荒廃された東京の描写は凄まじいものがあって、確かに建築をやっている学生さんとかは惹き付けられるであろう。バックグラウンドの絵などの描写は素晴らしいし、ミヤコ教の総本山のデザイン(代々木の国立競技場にそっくりだが)なども興味深い。それなのに、なぜ私が惹き付けられないのか。
それはまず、主人公の金田のキャラが今一つであり、とても感情移入できないからだ。まず、アホすぎ。子供のように感情に支配され、前後の見境がない。正義感がないとはいえないが、それは直情的であり、いや、本当、こいつには近づきたくない。そのような中、ケイが常識的な人間で、彼女の目を通じて世の中を捉えようとする読者としての自分がいたが、最後には一緒になってしまって、もうなんじゃこりゃ、の世界である。ご都合主義にもほどがある。いや、SFなので科学面ではご都合主義は致し方ないが、人間関係の描写にご都合主義だとストーリーの面白さが半減する。
あと、建築や都市の描写が素晴らしすぎるのであまりそう思っていなかったのだが、人の描写は決して上手くない。ヒロインのケイも美人なのかそうでないかが分からない。チヨコも男性か女性かはちょっとよく分からない。金田と関係を持っていた保健婦が美人でないのは分かったが。人の描写って難しいのだな、と改めて思わさせられる。
ということで35年ぶりぐらいに読み返した『AKIRA』は、やはりそれほど感心しなかった。ハリウッド的というか、アメリカ人にも分かりやすい単純なストーリーであるというところはあるかもしれないが、日本の漫画はもっと人と人との心の複雑な絡みが描かれている。そこで、ストーリーはリアリティを確保するし、そこに我々は惹き付けられる。例えば『あずみ』や『サイボーグ009』、『鉄腕アトム』、そのオマージュである『PLUTO』…というか、その作者である浦沢直樹の『二十世紀少年』や『MONSTER』なんか、まさにそういう作品である。『二十世紀少年』も主人公はアホといえばアホだが、金田のように感情移入ができないアホではなく、めちゃくちゃ感情移入したくなるようなアホだ。そういう意味では荒唐無稽さでは、はるかに『AKIRA』の上をいく荒木飛呂彦のジョジョ・シリーズでも、『AKIRA』よりはるかに物語の世界に引き込まれる。いや、パラレル・ワールドとか岩人間とか、まったくあり得ないと思いつつ、『AKIRA』のように読み進めることへの苦痛を覚えない。
さて、もう世紀の名作という評価が確立している『AKIRA』に対して、このような批判をするのはまさに神をも恐れぬ、という所業なのだろうが、率直に一個人としての読書感想をここに述べさせてもらう。失敬。
さて、しかし私のそのような関心のなさとは世間の評価はまったく異なり、『AKIRA』は日本の漫画の金字塔的位置づけにある。ハリウッドでも実写版映画が企画されて、本来であれば今年、公開予定であった。原作がつくられてから40年経っても、この人気というのは凄まじいものである。私も五十嵐太郎の著書を読んでいたら、やたら『AKIRA』の引用が多いので、改めて1巻から6巻までを購入して、一気読みをしてみた。
その感想であるが、やはり40年前と同じであまり感心しなかった。いや、荒廃された東京の描写は凄まじいものがあって、確かに建築をやっている学生さんとかは惹き付けられるであろう。バックグラウンドの絵などの描写は素晴らしいし、ミヤコ教の総本山のデザイン(代々木の国立競技場にそっくりだが)なども興味深い。それなのに、なぜ私が惹き付けられないのか。
それはまず、主人公の金田のキャラが今一つであり、とても感情移入できないからだ。まず、アホすぎ。子供のように感情に支配され、前後の見境がない。正義感がないとはいえないが、それは直情的であり、いや、本当、こいつには近づきたくない。そのような中、ケイが常識的な人間で、彼女の目を通じて世の中を捉えようとする読者としての自分がいたが、最後には一緒になってしまって、もうなんじゃこりゃ、の世界である。ご都合主義にもほどがある。いや、SFなので科学面ではご都合主義は致し方ないが、人間関係の描写にご都合主義だとストーリーの面白さが半減する。
あと、建築や都市の描写が素晴らしすぎるのであまりそう思っていなかったのだが、人の描写は決して上手くない。ヒロインのケイも美人なのかそうでないかが分からない。チヨコも男性か女性かはちょっとよく分からない。金田と関係を持っていた保健婦が美人でないのは分かったが。人の描写って難しいのだな、と改めて思わさせられる。
ということで35年ぶりぐらいに読み返した『AKIRA』は、やはりそれほど感心しなかった。ハリウッド的というか、アメリカ人にも分かりやすい単純なストーリーであるというところはあるかもしれないが、日本の漫画はもっと人と人との心の複雑な絡みが描かれている。そこで、ストーリーはリアリティを確保するし、そこに我々は惹き付けられる。例えば『あずみ』や『サイボーグ009』、『鉄腕アトム』、そのオマージュである『PLUTO』…というか、その作者である浦沢直樹の『二十世紀少年』や『MONSTER』なんか、まさにそういう作品である。『二十世紀少年』も主人公はアホといえばアホだが、金田のように感情移入ができないアホではなく、めちゃくちゃ感情移入したくなるようなアホだ。そういう意味では荒唐無稽さでは、はるかに『AKIRA』の上をいく荒木飛呂彦のジョジョ・シリーズでも、『AKIRA』よりはるかに物語の世界に引き込まれる。いや、パラレル・ワールドとか岩人間とか、まったくあり得ないと思いつつ、『AKIRA』のように読み進めることへの苦痛を覚えない。
さて、もう世紀の名作という評価が確立している『AKIRA』に対して、このような批判をするのはまさに神をも恐れぬ、という所業なのだろうが、率直に一個人としての読書感想をここに述べさせてもらう。失敬。
『地方創生の正体』 [書評]
久し振りに「読むべき図書」に出会ったというのが、読後の印象である。なぜ地域政策は失敗するのか。それは、そもそも中央政府は国策として、地域を消滅させようとしているからだ、という主張は、豊富の事例と二人の著者の論理的な思考によって、大変説得力のあるものとなっている。そういう意味で、地方がどんどんと衰退しているのは、国策としては失敗どころか成功であるのだ。ただ、本書が指摘するように、それらの地域の消滅は一方で統治の失敗であるという矛盾。増田レポートの偽善も明確に暴き出してくれる。地域の問題、統治の問題をしっかりと論証する本書の内容を理解することで、なぜ日本政府がコロナウィルスを抑制できないのか、オリンピックを中止することができずなし崩しに突進してしまうのか、といったことも分析できる。それは、自分達の都合が悪いもの(自治体等を含む)を排除していったことによって、自浄機能を失い、自分達が何をやっているのかも認識できなくなった安倍政権から続く、自民党体制とそれを維持させてきた中央政府の末期的症状が必然的にもたらした事態である。日本は、我々が思っているよりずっと深い沼に沈み込んでしまっている。
地方創生の正体 ――なぜ地域政策は失敗するのか (ちくま新書)
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2015/11/01
- メディア: Kindle版
タグ:『地方創生の正体』
『日本の美林』井原俊一著 [書評]
日本は森林国である。森が占める国土面積の割合は7割にも及ぶ。スイスのような山岳国家ではないのに、この割合の高さは改めて驚くような数字である。さて、しかし森と一言でいっても一様ではない。広葉樹、針葉樹、原生林、天然林、人工林・・・いろいろとそのタイプは違う。本書では、「資源」と「環境」という二つの対立する価値観で捉えられる日本の森をいかに「生きた森」として持続可能な状態で将来に維持させていくか、その方策を検討する。著者は全国24カ所の森を訪ね、それらの森の現状報告・分析を通じて、日本の森の多様さ、豊かさ、そして、その危機的な現状を読者に伝えてくれる。
橋爪紳也『大京都モダニズム観光』 [書評]
大正時代から昭和初期にかけて、地図、絵はがき、パンフレットなどをもとに、いかに「大京都」という観光都市がつくられていったかを考察・分析した本。桜や紅葉、菊といった季節感のあるコンテンツをいかに観光資源化させていったのか。また「都をどり」、京名物・京土産、太秦の映画街、博覧会、遊園地といった新たな観光資源をいかにつくっていったのかが著者の鋭い分析のもとに整理されている。これを読むと京都のことがとても分かったような気分になれる。個人的には愛宕山のロープウェイ話がとても興味深かった。
タグ:大京都モダニズム観光 橋爪紳也
『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』 [書評]
なんかタイトルだけに惹かれてキンドルで一巻目を購入して読んだら、久々に嵌まった。絵があまり上手くなく、著者の名前も「マキヒロチ」だったのでてっきり男性かと思ったら女性であった。道理で、不動産を探しに来る人がほとんどが女性だったのか。この漫画は、相当、東京という都市の根源的な魅力を表現できていると思われる。それは、生活環境の器としての都市の魅力であり、すなわちネイバーフッドの魅力である。これは、モータリゼーションやイオンに阿ってしまった地方と東京との最も大きな豊かさの格差になってしまっている。東京と地方での格差は経済的な豊かさではなく、この消費生活の豊かさが最も大きいと私は分析をしているのだが、この地方にはなくなりつつしかし、このネイバーフッドの東京の魅力は、外部の人には分からない。いや、外部の人という言い方はちょっと下品だが、東京人も自分のライフヒストリーで関係したネイバーフッドぐらいしか魅力をしっていないので、そんなに差別化することはできない。以前、ハイライフ研究所にスポンサーになってもらい、調査研究をしたことがある。
https://www.hilife.or.jp/13490/
大学院の学生を中心とした研究チームを組み、蒲田、千住、三軒茶屋、十条、赤羽などを訪れて「その街の魅力」を探るということをしたのだが、なんかこの研究とこの本が捉える「魅力」が重複する。そして、この本には東京の魅力は吉祥寺だけじゃないだろう、という主張と吉祥寺の魅力がどんどんなくなって大丈夫なのかよ!という二つの主張があるかと思う。両方ともとても共感する。吉祥寺はやはり、相当楽しい街かと思うが、そのローカルの良さがどんどん希薄化している。吉祥寺はハーモニカ横丁の周辺の土地をお寺が所有しているので、それが市場経済による「街の破壊」を防いでいるという側面があるが、それでも、その周辺は市場経済が席巻していて、なんか独自のよさがなくなっている。そして、このような企業による投資活動があまり展開されていない東京のネイバーフッドは、このローカル性が生み出す吉祥寺的な魅力に溢れている。視点によっては吉祥寺より、面白いところがある。個人のテイストによっては、吉祥寺より楽しい、少なくともコスパが高いところは東京にはたくさんある。
結構、うむうむ、と納得したのは砂町銀座や十条、蒲田、雑司ヶ谷。ほとんどの街を知っていたが、この本で指摘されて「ほうっ」と思ったのが福生と野方。この二つの街は時間をつくっていかなくてはと思ったりする。まだ、連載は終わっていないので今後、期待するのは、立石、戸越銀座、学芸大学、駒込、江古田、常盤台、中野新橋とかかな。それにしても、なかなかこういう日常的な視点での東京の魅力はあまり語られていなかったかと思う。そういう意味では、それを見事、テキスト化した本であると思われる。
https://www.hilife.or.jp/13490/
大学院の学生を中心とした研究チームを組み、蒲田、千住、三軒茶屋、十条、赤羽などを訪れて「その街の魅力」を探るということをしたのだが、なんかこの研究とこの本が捉える「魅力」が重複する。そして、この本には東京の魅力は吉祥寺だけじゃないだろう、という主張と吉祥寺の魅力がどんどんなくなって大丈夫なのかよ!という二つの主張があるかと思う。両方ともとても共感する。吉祥寺はやはり、相当楽しい街かと思うが、そのローカルの良さがどんどん希薄化している。吉祥寺はハーモニカ横丁の周辺の土地をお寺が所有しているので、それが市場経済による「街の破壊」を防いでいるという側面があるが、それでも、その周辺は市場経済が席巻していて、なんか独自のよさがなくなっている。そして、このような企業による投資活動があまり展開されていない東京のネイバーフッドは、このローカル性が生み出す吉祥寺的な魅力に溢れている。視点によっては吉祥寺より、面白いところがある。個人のテイストによっては、吉祥寺より楽しい、少なくともコスパが高いところは東京にはたくさんある。
結構、うむうむ、と納得したのは砂町銀座や十条、蒲田、雑司ヶ谷。ほとんどの街を知っていたが、この本で指摘されて「ほうっ」と思ったのが福生と野方。この二つの街は時間をつくっていかなくてはと思ったりする。まだ、連載は終わっていないので今後、期待するのは、立石、戸越銀座、学芸大学、駒込、江古田、常盤台、中野新橋とかかな。それにしても、なかなかこういう日常的な視点での東京の魅力はあまり語られていなかったかと思う。そういう意味では、それを見事、テキスト化した本であると思われる。
野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』 [書評]
『論理トレーニング』の著者である野矢茂樹氏の著書。『論理トレーニング』はゼミ生の卒論指導の副読本で使っているのだが、大学一年生の基礎演習の教科書として使えるかなと思い、読んでみた。結論、これは相当、教科書として優れていると思う。国語をなぜ学ぶのか、国語を鍛えることの必要性などが、じわじわと分かってくる。最後の難波博孝氏との対談で著者は「でも真面目に、国語教育が変わることで、日本が変わりうると思っているんです」と述べる。そして、「人間が成熟してくるということの大きな側面は言葉が成熟するということです。言葉が未熟だったら、人間も未熟なままです」とも述べる。
言語が人格を形成する、というのはその通りだと思う。私はいい加減なバイリンガルであるが日本語の人格と英語の人格は異なる。そして、英語の人格の方が浅はかであるが、ちょっと人がいい。とはいえ、トランプ支持者よりは、日本語での思考力がしっかりしているのでいろいろと考えることは出来る。したがって、トランプのいい加減なロジックは見抜けることができる(いや、私の拙い英語脳でも分かるかとは思うが・・・)。
トランプは言語力が極めて低いが、これはむしろ、トランプ支持者との円滑で表層的なコミュニケーションを可能としている。アメリカの民度の低さは英語力(国語力)の低さにあるのだなあ、というようなことをこの本を読んでつくづく思ったりもした。
言語が人格を形成する、というのはその通りだと思う。私はいい加減なバイリンガルであるが日本語の人格と英語の人格は異なる。そして、英語の人格の方が浅はかであるが、ちょっと人がいい。とはいえ、トランプ支持者よりは、日本語での思考力がしっかりしているのでいろいろと考えることは出来る。したがって、トランプのいい加減なロジックは見抜けることができる(いや、私の拙い英語脳でも分かるかとは思うが・・・)。
トランプは言語力が極めて低いが、これはむしろ、トランプ支持者との円滑で表層的なコミュニケーションを可能としている。アメリカの民度の低さは英語力(国語力)の低さにあるのだなあ、というようなことをこの本を読んでつくづく思ったりもした。
タグ:野矢茂樹 大人のための国語ゼミ
『今井町 甦る自治都市』 [書評]
奈良県橿原市にある今井町。全建物数約1500棟のうち、約500棟が伝統的建造物であり、これは全国で最も多い地区である。この今井町の住民が、どのように町並み保全に至るか、その経緯を関係者への取材等を通じて明らかにした力作。素晴らしいルポルタージュである。
本の最後の方で、東大名誉教授である渡辺定夫氏が、「今井町は当然、世界遺産」と述べたのが印象に残っている。そもそも国が重要伝統的建造物群保存地区制度を策定したのも、今井町の保全が前提となっていたそうだ。しかし、自治都市としての長い伝統を持つ今井町の住民は上からの押しつけ的な制度に抵抗し、それが1993年に選定されるまで、制度ができてから18年も経っている。当然、第一号として指定されるべき条件を満たしていたにもかかわらず、いろいろと紆余曲折があった。それは、人々が生活する空間をいかに保全するかの難しさを物語っていると同時に、住民の意向というのが、まちづくり、都市計画において極めて重要であることをも示唆している。
このような本がしっかりと世の中に出たことは、今井町の記録としての価値だけでなく、まちづくりや都市計画の難しさを理解するうえでも極めて価値があることだと考えられる。そして、この住民とそれを取り巻く人々との葛藤の積み重ねがあるからこそ、今井町の現在の姿の有り難みがさらに実感できる。そして、その遠回りとも思えるようなプロセスを経たからこそ、今井町は博物館ではなく、今でも歴史都市として現役の姿を維持しているのだ。
本の最後の方で、東大名誉教授である渡辺定夫氏が、「今井町は当然、世界遺産」と述べたのが印象に残っている。そもそも国が重要伝統的建造物群保存地区制度を策定したのも、今井町の保全が前提となっていたそうだ。しかし、自治都市としての長い伝統を持つ今井町の住民は上からの押しつけ的な制度に抵抗し、それが1993年に選定されるまで、制度ができてから18年も経っている。当然、第一号として指定されるべき条件を満たしていたにもかかわらず、いろいろと紆余曲折があった。それは、人々が生活する空間をいかに保全するかの難しさを物語っていると同時に、住民の意向というのが、まちづくり、都市計画において極めて重要であることをも示唆している。
このような本がしっかりと世の中に出たことは、今井町の記録としての価値だけでなく、まちづくりや都市計画の難しさを理解するうえでも極めて価値があることだと考えられる。そして、この住民とそれを取り巻く人々との葛藤の積み重ねがあるからこそ、今井町の現在の姿の有り難みがさらに実感できる。そして、その遠回りとも思えるようなプロセスを経たからこそ、今井町は博物館ではなく、今でも歴史都市として現役の姿を維持しているのだ。
池上俊一『森と山と川でたどるドイツ史』 [書評]
西洋中世史を専門とする東京大学大学院総合文化研究科教授の『○○でたどる○○史』のドイツ版。他には『パスタでたどるイタリア史』、『王様でたどるイギリス史』、『お菓子でたどるフランス史』、『情熱でたどるスペイン史』などを著されている。ある切り口で、ある国の歴史を語る、というのはなかなか興味深い試みであり、それなりの重みのある読後感はあった。ただ、この難しいところは、その切り口が分析対象をしっかりと照射するのに適しているかどうか、ということだ。本書も『森と山と川でたどる』ことができるドイツと、そうでないドイツがある。著者はそのような限界を分かっているのであろうが、その切り口を切ったナイフで、切れないドイツも切ろうとすることがたまにある。『森と山と川でたどる』ことができるドイツ史だけを浮き彫りにすればいいのであろうが、まあ、思わずその怖ろしいほどの教養的知識をちょっと出したくなってしまうところがあるのだろう。読んで無駄ではないが、この本が示すドイツ史は、ドイツ史全体のほんの一部分であることを強く自覚して読むといいのではないだろうか。
カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』 [書評]
イタリア人の理論物理学者の「時間」論。時間という極めて難解なテーマに対して、一般的な読者にも分かるような丁寧な文章で分析・解釈が為されている。「時間とは人間が生み出すものだ」という論点は、最初は相当戸惑うが、読み進むにつれ、極めて優れた考察であることが理解できてくる。ある意味ではコペルニクス的転換ともいえる時間の解釈であるが、説得力があり、生きることの貴さを改めて理解させてくれるような本である。ここ数年、読んだ本の中でも最も個人的に価値を見いだした本でもある。
私は、圧倒的にいわゆる「文系」的な科目が入試的には得意だったにもかかわらず、間違って「理系」に進んでしまったのは、こういうことに強い関心があったからだな、ということも思い出させた。大学に入ったら、疲れてすべてそういうことも忘れてしまったけど、高校時代には関心があったことを思い出した。
私は、圧倒的にいわゆる「文系」的な科目が入試的には得意だったにもかかわらず、間違って「理系」に進んでしまったのは、こういうことに強い関心があったからだな、ということも思い出させた。大学に入ったら、疲れてすべてそういうことも忘れてしまったけど、高校時代には関心があったことを思い出した。
『コロナ後の世界を生きる』村上陽一郎編 [書評]
パンデミックと言えば村上陽一郎。その彼が編修した、24名のオピニオン・リーダーによるコロナ後の世界をどう生き抜くかの指針。ただ、その内容には随分と温度差があり、これは傾聴に値すると姿勢を正して読むような文(藤原辰史や石井美保)もあれば、まるで酔っ払いの戯れ言かというような文(藻谷浩介)もある。玉石混交である。急いで出版することを優先したのか、本としてのコンセプトが見えてこない。読む必要性がまったくない文もあるが、読むに値する文もあるので、それを人に勧めるか否かは難しいところだが、律儀に全文読むのでなく、適当に関心のあるテーマをつまみ食いするのがいいと思われる。とはいえ、私のように買った本はすべて読まないと気が済まない人もいるだろうから、難しいところだ。正直、藻谷浩介の文章は読むに値しなく時間の無駄であった。彼の文が前半にあったら、最後まで読めなかったかもしれない。売れっ子はこんないい加減な文章を岩波新書に書けるのだな。ちょっとだけ羨ましい気持ちにもなる。
コロナ後の世界を生きる――私たちの提言 (岩波新書 (新赤版 1840))
- 作者: 村上 陽一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2020/07/22
- メディア: 新書
『未来の年表』 [書評]
産経新聞の記者による日本の人口減少を分析し、かつ処方箋をしたためた新書。分析の部分はまあ読めたが、処方箋はただの思いつき的妄想にしか過ぎない。しかも、その思いつきに大した創造性もなく、読むのが苦痛になったので一度読むのを中断した。新書であるのにだ。それぐらい、無責任でいい加減な処方箋を書いている。特にCCRCとか知の巨人村といった大学絡みの話は、私自身が大学教授であるが、まったく荒唐無稽というか、なんか人の気持ちとか分からない人なんじゃないかな、と思う。さらに、その論の構築もまったく説得力がない。この人、政府の委員とかを務めているみたいだけど、それは逆に政府の知恵の無さを露呈していると思われる。正直、産経新聞のジャーナリストって、こんなもんなのか?と疑問を持たされる。さらに、これは講談社現代新書から出版されているのだが、講談社もこんなレベルが低かったのかと驚く。でも40万部近く売れたから経営的にはいいのかもしれないな。まあ、この程度のジャーナリストが受けるような国には確かに未来はないな。若者にメッセージという巻末の言葉があるが、私が若者だったら、この本を読んだら日本を脱出することを考えますね。若者が日本と心中すると思ったら大間違いである
タグ:未来の年表
パンデミック・マップ [書評]
「感染症地図(The Atlas of Disease)」の日本語訳本。原書は2018年に出されているが、まさにコロナ禍においてはうってつけの本である。訳本は2020年3月に出版されている。なかなか商機を伺うのに敏である。さすが、日経新聞系の出版社だ。そんなことはともかく、この本は相当興味深く、感染症に関心のある人は手に取るといいかと思う。感染症をその媒介のパターンから「空気感染症」、「水系感染症」、「動物由来感染症」、「人から人への感染症」の4つに分類し、それらがどのように世界中に広まっていったのかを地図によって示している。地図はカラーであり、紙質も重くしっかりとしていて、ハードカバーであるのに2600円というリーズナブルな値段はお買い得感もある。著者は非常にこの分野に関して造詣が深く、医学とか病気にまったく素人の私はいろいろと勉強になった。
ビジュアル パンデミック・マップ 伝染病の起源・拡大・根絶の歴史
- 出版社/メーカー: 日経ナショナルジオグラフィック社
- 発売日: 2020/02/14
- メディア: 単行本
タグ:パンデミック・マップ
『ペスト大流行』村上陽一郎 [書評]
科学史の大家、村上陽一郎が1983年に出した『ペスト大流行』。これまでヨーロッパでは三回大きなペストの流行をみているが、この本は14世紀のペスト大流行に焦点を当て、その被害の実態、さらにはそれが当時のヨーロッパの社会経済に及ぼした影響についてコンパクトに論じている。著者の造詣の深さには驚くべきものがあり、現在のコロナウィルスがこれからどんな影響を社会経済に及ぼしていくのかを考察するうえで資するような知見に溢れている。
ペスト大流行: ヨーロッパ中世の崩壊 (岩波新書 黄版 225)
- 作者: 村上 陽一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/03/22
- メディア: 新書
リウーを待ちながら [書評]
2017年から2018年にかけて連載された漫画の単行本。まるで現在のコロナウィルス禍を予測したかのような展開に驚くが、その元ネタはカミュの「ペスト」。リウーとは、ペストの主人公である医師の名前である。その内容も、「ペスト」でロックダウンされた都市オラン市を、そのまま日本の富士山麓の横走市へ置き換えたような内容であるが、舞台背景は21世紀なので、「ペスト」の物語が現在、起きたらどうなる、という読者の想像力をかき立てるという意味で面白い。「ペスト」に出てくる登場人物を彷彿させる人も多く出てきて、また「ペスト」での科白をそのまましゃべらせたりして、「ペスト」を読んだことのある読者にとってはそれもこの漫画の魅力の一要素となっているであろう。この本を読む前に「ペスト」を読むことをお勧めするし、こちらを先に読んだ場合も後追いで「ペスト」を読むといいかと思う。どちらの本も、そのお互いの世界を理解するうえで役に立つ。
建設ドキュメント1988 – イサム・ノグチとモエレ沼公園 [書評]
札幌市にあるモエレ沼公園は、そのデザイン性の高さ、クオリティの高さなどから、公共事業でつくられたとはとても思えない、ある意味、奇跡的な公共空間であると考える。この本は、そのような「奇跡」がなぜ起きたのか、プロジェクトに主体的に関わった建築家とランドスケープ・アーキテクツが解説した共著である。「奇跡」を起こすための桂市長の英断、天才芸術家であるイサム・ノグチの意思を引き継いだ関係者の覚悟、一般競争入札といった悪弊を超克した行政的知恵・・・なかなか感動的である。モエレ沼公園が気になった人は是非とも手に取って読まれるといいと思う。というか、行政職員必読書ではないだろうか。これを知れば、役所の仕事がつまらないとは言えないであろう。
思考の整理学 [書評]
合理的で、生産的な思考とは何かということについて著者の考えが述べられている。極めて本質的で、納得がいくことが書かれており、突拍子のあるようなことは書かれていない。そういう点で読んでいて、むしろ「自分はこのままやっていけばいいのだ」と後ろ押しをしてくれるような本である。ただ、当時は有効だった「カード・ノート」、「手帳」等は、スマートフォン、インターネットの時代ではちょっと古くさいアプローチではある。この考え方を今の進歩したシステムにうまく応用することが必要であろう。読んでまったく損がないし、一度、思考を「整理」するためにも読むべき本であろう。
アルベール・カミュ『ペスト』 [書評]
コロナウィルス禍、気になる小説『ペスト』を読む。フランスの作家、アルベール・カミュが1947年に刊行した、ペストが流行するアルジェリアのフランス植民都市での極限状態における市民の連帯を描いた小説である。
この小説は、現在、進行しているコロナウィルス禍の状況下において、個人がどのように対峙すべきなのか、多くの示唆を与えてくれると同時に、対岸の火事ではあるが、日本の同盟国であるアメリカ合衆国において、トランプ政権がやりたい放題をして民主主義を危機に陥れている中、何をすべきかを考えるうえでも多くのヒントを与えてくれる。
カミュが「ペスト」で描いた不条理の世界は、彼自身が体験したナチスドイツ占領下のヨーロッパでの出来事の暗喩でもある。不条理とは、「馬鹿げた計画と明白な現実との比較」とから噴出するものであるが、コロナウィルス禍を真に不条理なものにするのは、Go to トラベルに象徴される「行政のデタラメな対応」や、ノーマスクで山手線に乗って売名行為をする人々に象徴される「人々の相互不信」、さらには志村けんの死別に象徴される「大切な人との別離」などであろう。すなわち、「死」という不条理以外は、人災的に人々によってもたらされる、逆にいえば、人がしっかりしていれば、その不条理の拡大を抑えることもできるということだ。
「ペストと闘う唯一の方法は誠実さだ」と小説の主人公である医師のリウーは語るが、これはまさにコロナの不条理の拡大を抑止させるポイントであると思う。Go to トラベルのどこが問題かというと、それは「誠実」でないことだ。二階氏が会長を務める一般社団法人全国旅行業協会に対して、ある意味「誠実」であるのかもしれないが、そのために、一般の国民に旅行に行かせるというコロナを抑えることとまったく真逆のことをしようとする「誠実さのなさ」には愕然とするしかない。
そして、これはコロナでもそうだが、トランプ政権のアメリカ合衆国においても、トランプそしてトランピズム(Trumpism)という「不合理」にどのように対応すべきか、ということを考えても、それは「誠実さ」なのではないかと思う。
恐ろしいことに、トランピズムはさらに拡大し、Qanonというとんでもない化け物を産み出している。Qanonはトランプも支持しているが、「民主党の政治家達は子供の肉を食べている」といった荒唐無稽の陰謀説を訴えているのだが、驚くことに、これらを信じているアメリカ人が結構の数、いるのである。既にマージョリー・グリーン(Marjorie Taylor Greene)といった共和党の政治家はQanonの支持についている。
QanonはFBIによって、国内テロリストの可能性が高いとチェックをしているが、FBIもトランプ政権下ではその行動は制限されている。というか、改めてトランプ政権というのは、バットマンでいうところのジョーカーが大統領になったようなものだな、とも思うが、このような「不合理」に対応するにも、やはり「誠実さ」が一番なのであろう。ジョー・バイデンとカマラ・ハリスの「誠実さ」に、私がアメリカ人だったらすべての有り金を賭けたいぐらいである。
https://www.nytimes.com/2020/07/14/us/politics/qanon-politicians-candidates.html)
このように捉えると、この「ペスト」という小説、多くの含蓄に溢れている。ただ、訳は今ひとつである。当時の仏蘭西文学の大家が訳したようなのだが、仰々しい表現など、本当にこのように現本で書かれていたのか疑わしい箇所が多々ある。とはいえ、フランス語はほとんど読めないので、この点については検証もできないが、文章はあまり読みやすいとはいえない。この点は残念である。
この小説は、現在、進行しているコロナウィルス禍の状況下において、個人がどのように対峙すべきなのか、多くの示唆を与えてくれると同時に、対岸の火事ではあるが、日本の同盟国であるアメリカ合衆国において、トランプ政権がやりたい放題をして民主主義を危機に陥れている中、何をすべきかを考えるうえでも多くのヒントを与えてくれる。
カミュが「ペスト」で描いた不条理の世界は、彼自身が体験したナチスドイツ占領下のヨーロッパでの出来事の暗喩でもある。不条理とは、「馬鹿げた計画と明白な現実との比較」とから噴出するものであるが、コロナウィルス禍を真に不条理なものにするのは、Go to トラベルに象徴される「行政のデタラメな対応」や、ノーマスクで山手線に乗って売名行為をする人々に象徴される「人々の相互不信」、さらには志村けんの死別に象徴される「大切な人との別離」などであろう。すなわち、「死」という不条理以外は、人災的に人々によってもたらされる、逆にいえば、人がしっかりしていれば、その不条理の拡大を抑えることもできるということだ。
「ペストと闘う唯一の方法は誠実さだ」と小説の主人公である医師のリウーは語るが、これはまさにコロナの不条理の拡大を抑止させるポイントであると思う。Go to トラベルのどこが問題かというと、それは「誠実」でないことだ。二階氏が会長を務める一般社団法人全国旅行業協会に対して、ある意味「誠実」であるのかもしれないが、そのために、一般の国民に旅行に行かせるというコロナを抑えることとまったく真逆のことをしようとする「誠実さのなさ」には愕然とするしかない。
そして、これはコロナでもそうだが、トランプ政権のアメリカ合衆国においても、トランプそしてトランピズム(Trumpism)という「不合理」にどのように対応すべきか、ということを考えても、それは「誠実さ」なのではないかと思う。
恐ろしいことに、トランピズムはさらに拡大し、Qanonというとんでもない化け物を産み出している。Qanonはトランプも支持しているが、「民主党の政治家達は子供の肉を食べている」といった荒唐無稽の陰謀説を訴えているのだが、驚くことに、これらを信じているアメリカ人が結構の数、いるのである。既にマージョリー・グリーン(Marjorie Taylor Greene)といった共和党の政治家はQanonの支持についている。
QanonはFBIによって、国内テロリストの可能性が高いとチェックをしているが、FBIもトランプ政権下ではその行動は制限されている。というか、改めてトランプ政権というのは、バットマンでいうところのジョーカーが大統領になったようなものだな、とも思うが、このような「不合理」に対応するにも、やはり「誠実さ」が一番なのであろう。ジョー・バイデンとカマラ・ハリスの「誠実さ」に、私がアメリカ人だったらすべての有り金を賭けたいぐらいである。
https://www.nytimes.com/2020/07/14/us/politics/qanon-politicians-candidates.html)
このように捉えると、この「ペスト」という小説、多くの含蓄に溢れている。ただ、訳は今ひとつである。当時の仏蘭西文学の大家が訳したようなのだが、仰々しい表現など、本当にこのように現本で書かれていたのか疑わしい箇所が多々ある。とはいえ、フランス語はほとんど読めないので、この点については検証もできないが、文章はあまり読みやすいとはいえない。この点は残念である。
コロナの時代の僕ら [書評]
1982年生まれのイタリアの作家パオロ・ジョルダーノのコロナ禍でのエッセイ集。このイタリアの若い知性は、問題の本質を鋭く把握しており、またそれを表現する高い文章力が、読者にコロナ禍の世界を理解させることに資する内容となっている。例えば、コロナウィルスの感染を、ビリヤードの玉に例えたところなどは秀逸だ。ソーシャル・ディスタンスは、それぞれの玉の距離を離すことであるといった比喩も説得力がある。このエッセイ集は、現地の新聞に寄稿したものが始まりだそうだ。イタリアの2月頃の状況をもとに、いろいろと思いを巡らしている内容であるが普遍性を持っている。イタリアでのコロナ収束への方向転換には、このような知性が寄与していることはおそらく間違いないであろう。
タグ:コロナの時代の僕ら
広井良典『ポスト資本主義』 [書評]
京都大学の広井良典教授が著した新書。広井先生の縮小時代における社会システムをどのようにつくっていけばいいのか、現状の課題を挙げて解説している。彼の思想が包括的に明解にまとめられており、広井先生の本をとりあえず読んでみたいという読者には、この本はお勧めである。広井先生の特徴は、その知識の裾野の幅が広いところである。法学部で学ぶが、科学史に関心を持ち、そちらに専門を移し、厚労省で働いたこともあるので、福祉政策・医療政策にも精通している。その幅の広い知識と視座が、現在・過去の社会システムを分析し、未来の望ましい社会システムを提示するうえで極めて有効に働いているのではないかと思わせる。この本は、そのエッセンスが集約されており、分かりやすい。