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イタリアの南部の農家の人たちは、周囲の人たちと仲良くなく、自己中心的であるそうだ [グローバルな問題]

イタリアのフォッジ大学の先生が龍谷大学政策学部で講演をしたので参加した。バリに訪れた時、一緒に食事をしたことがあるからだ。彼らは農業経済学者だったのだが、イタリアの南部にある農村のコミュニティづくりを実践的に試みている。その成果などを発表していたのだが、興味深かったのは、イタリアの南部の農家の人たちは、周囲の人たちと仲良くなく、自己中心的であるという説明があったことだ。地理的にも散在しているらしく、協働作業などをしないそうだ。彼らは、これらの農家がネットワーク化できるように、VAZAPPという企画を推進している。これは農家を会場として「夕食会」を開催し、周辺の農家に来てもらい、そこでネットワークをつくるきっかけを提供している。
 なぜ、イタリア人が自己中心的であるか不思議だったのだが、日本の農家の多くは米農家なので、水の管理という観点から協働せざるを得ないのだが、南部イタリアはオリーブとかなので、別に水の管理はそれほど重要ではないから、協働しなくてもやっていけるからだそうだ。
 そうだったのか。日本の組織の協調性の高さ(最近はそうでもないかもしれないが)は米農家という組織文化を引き継いでいるかもしれない。

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「日本語の教室」大野晋 [書評]

新書でありながら、言語に関して深く考えさせられる内容が含まれている。これまで受けた質問に回答する形となった第一部と、「日本語と日本の文明、その過去と将来」について、言語学者から考察した日本人の論理的思考の弱点、そして日本のこれから行くべき道を論じている。たいへん、示唆に富んでいる。
「言語能力と事実の認識力とには関係性がある」、「人間は母語によって思考する。母語の習得の精密化、深化をはかることなくして、何で文明に立ち向かうことができよう。」といった指摘はもちろんだが、湯川秀樹が日本、中国の古典を実によく読んで消化しており、言語的にも日本語について緻密な理解力を持っていたことを挙げ、思考の底の部分で言語の力と物理学の構想力が通じていたのであろう、などという洞察も大変、参考になる。理系・文系といったあたかも血液型のように人の能力を判断するという世界的にも恐ろしく奇異な慣習がある日本人に猛省を促すような指摘であると思われる。理系と文系との能力は、論理的な思考をするうえでは極めて共振する。また、「日本語がよくできない日本人は、アメリカに滞在しても英語ができるようにならない」といった例も外国語教育のあり方について再考させられる。
多くの知見が得られる良書である。


日本語の教室 (岩波新書)

日本語の教室 (岩波新書)

  • 作者: 大野 晋
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2002/09/20
  • メディア: 新書



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