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映画『ロケット・マン』を観て、改めてエルトン・ジョンのことを考える [映画批評]

エルトン・ジョンの半生を描いた映画『ロケット・マン』を観る。私は、1972年から1976年までロスアンジェルスで過ごした。彼のベスト・アルバムともいえる『イエロー・ブリック・ロード』が発表されたのが1973年。私が通っていた小学校では、同級生が『ベニー・エンド・ザ・ジェッツ』を口ずさんでいたりしたものだ。エルトン・ジョンはあの頃、まさにアメリカを席捲していた。それは、まさに社会現象であった。
 ということで、否が応でもエルトン・ジョンに関心を向かされたが、そのレコードを購入したりすることはなかった。それほど当時はロックに興味がなかったのかもしれない。むしろ、社会現象として興味を持っていたと思う。
 さて、しかし、そのエルトン・ジョンも1976年の2枚組『ブルー・ムーブ』あたりから勢いを失ったような気がする。その次のアルバムの『A Single Man』を発表したのは、私も日本に帰国しており、ロックに興味を持つようになっていたのだが、なんか、こうフックが失われたような印象を受け、その後、『Victim of Love』というディスコ系のアルバムなどを出していたりして、そもそも最初からそれほどなかった関心を失った。
 そしたら、1983年に『I am Still Standing』や『I Guess That's Why They Call It the Blues』といった佳曲が入った『Too Low for Zero』で見事な復活を遂げる。それが、バーニー・トーピンという作詞家とまたタッグを完全復活させたことが要因であったことは私の興味を随分と惹いた。というのも、バーニー・トーピンという作詞家と袂を分かったのが『A Single Man』からで、それからエルトン・ジョンはずっと不調だったからだ。まるで、バーニー・トーピンが「あげまん」であったかのようで、メロディー・メーカーとしては天才でも、詩がしっかりとしてないと優れた曲はできないのか、と私に考えさせる例であったからだ。
 話を映画に戻すと、この映画は、まさにエルトン・ジョンの幼少時からバーニー・トーピンとの出会い、アメリカでの成功、さらにバーニー・トーピンとの別れ、その後の失望と失墜、そして、復活までを描いている。映画の最後のシーンは、『I am Still Standing』のプロモーション・ビデオである。
 さて、この映画を観て、さらにそれまで知らなかったエルトン・ジョンのことを幾つか知った。まず、母国イギリスではアメリカのように売れなかったことである。シングルでチャートの1位になったのは1990年が最初で、その曲はSacrificeであった。それまでにアメリカでは5曲が1位になっていることを考えると随分と対照的であるし、この1990年というのは、映画で描かれたエルトン・ジョンがまさにアメリカの音楽シーンを支配していた時代よりずっと後である。アルバム・レベルでは結構、イギリスでも売れていたが、それでもアメリカでは1972年に発表された「Honky Chateau」から1975年に発表された「Rock of the Westies」までの6枚のアルバムが連続して1位であったのに対して、イギリスでは1973年の「Don't Shoot Me I'm Only the Piano Player」から1974年の「Caribou」までの3枚だけだったのは興味深い。
 あと、映画においては、それこそエルトン・ジョンのきら星のごときヒット曲が多く流されるのだが、私が個人的に相当好きな「Island Girl」や「Philadelphia Freedom」、「Daniel」が選ばれなかったのも興味深かった。まあ、佳曲が多いので致し方ないかなと思うし、「Island Girl」は映画の内容とマッチさせるのはなかなか難しいだろうが、ちょっと残念。
 内容に関しては、実際は、エルトンの実母や実父はそれほど悪人ではないと擁護する発言が家族から結構、出ているそうだ。母親に関しては、エルトン・ジョンもそのように言っているらしい。まあ、ということで、結構、脚色もあるかなと思うが、凄まじい音楽的才能の持ち主のドラマチックの人生はなかなか観るものを惹きつける。天才というものについて、なかなか考えさせる映画である。

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