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門司港レトロ地区を訪れ、その優れた都市デザインに大いに感心する [都市デザイン]

門司港レトロ地区を初めて訪れる。土木学会デザイン賞などを受賞したりしていたことや、アルド・ロッシの遺作のホテルがあることなどから以前から注目はしていた。しかし、なかなか訪れる機会はなかったのだが、今回、そこの都市デザインに長く関われてきた城水さんに取材のアポが取れたので訪れた。
 門司港レトロのポイントは、門司が外国貿易で繁栄した明治時代から大正時代にかけてつくられた門司港駅周辺の建物を中心に、それらの建物が映えるように周辺の都市空間を観光整備しているところである。門司港駅は、1942年に関門海峡が開通したことで本州と繋ぐ列車がバイパスすることになり、さらには筑豊炭田の衰退などから門司港の物流における重要性も失われ、都市開発から取り残されるような状況が続く。しかし、これが逆に幸いして、結果、貴重な歴史的建築物が壊れずに残されていた。門司港レトロはこれらの建物を保全して、景観要素として見事に活用したのである。そして、その修景デザインのセンスの良さは、なかなか唸らせるものがある。
 それだけでなく、個人的に関心したのが、門司港レトロは建物の修復保全がしっかりとされているだけではなく、これらのレトロな建物を保全した地区をオートフリーとまでは言わないまでも極力、歩行者が快適に移動できるような環境を創造しているところである。特に歩行者動線のために1993年につくられた「ブルーウィングもじ」という全国で唯一の歩行者専用跳ね橋などは、単に動線を円滑化させただけでなく、この地区を歩きたくなるというインセンティブとしての役割も果たしているかと思われる。
 このような工夫は歩行者主体の都市空間デザインを得意とするデザイナーの中野氏が大きく関与したからこそ、具体化できたのではないだろうか。
 景観的な側面に目が向きがちであるが、この「歩いて楽しくなる」歩行者主体の空間デザインこそ、「歩くのがつまらない」多くの日本の地方都市と門司港レトロの大きな違いであるし、それこそが、ここの都市デザイン事業の評価できるポイントなのではないかと思われる。ただ、現在、門司港レトロと中心市街地とは大通りで大きく分断されている。ここをも含めて歩行者が自在に移動できるような空間をつくることができれば、さらに魅力的な都市空間をつくることが期待できるのではないだろうか。
 

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ジャクソン・ハイツを訪れ、大いにたまげる [地球探訪記]

クイーンズにあるジャクソン・ハイツを訪れた。私はマンハッタンのホテルが高くなってから、フラッシングのシェラトンを常宿にしていたことがある。当時は、1泊100ドル以下、60ドルから70ドルぐらいで泊まれたからだ。今は、ここでも300ドル近く取るようになったので泊まることを止めてしまったが。それはともかくとして、フラッシングに泊まって地下鉄7号線でマンハッタンに通うということをしていたので、ジャクソン・ハイツはしょっちゅう通過していた。しかし、降りることはしなかった。
 昨年、巨匠ワイズマンによる映画『ジャクソン・ハイツ』を見た。なかなか内容が濃い映画で、私は映画のトークショーにも渋谷、出町座と二回も出演した。しかし、ジャクソン・ハイツを訪れたことはなかったので、ブルックリンに来ているこの機会をうまく使って訪れた。
 ジャクソン・ハイツは人口10万8千人のクイーンズのネイバーフッドである。住民の56%がヒスパニックでアジア系が22%、白人が17%、そしてアフリカ系は2%しかいないという面白い住民構成をしているネイバーフッドである。
 ジャクソン・ハイツは20世紀前半にエベネザー・ハワードの田園都市の影響を受け、マンハッタンの高密度を回避したい中流から上流階級の人達を対象に、エドワード・マクダウガルのクイーンズボロ会社によって1917年の7号線(フラッシング線)の開通に合わせる形で1916年から区画整理がされた。つくられた住宅は、アングロ・サクソンのプロテスタントのみに提供され、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ギリシャ人、イタリア人は排斥された。
 住民の構成が変わったのは大恐慌の後の1930年頃からである。マンハッタンの劇場関係者の同性愛者がここに住みつくようになり、マンハッタンの外では最大の同性愛者地区を形成する。ユダヤ人も1940年頃からは住むことが許可され、1950年以降はコロンビアの中流階層が母国の犯罪から逃れるように資本を持ってやってきて、ここにコミュニティをつくることになる。一方、ロング・アイランドの郊外開発が進む1960年以降は、ここに住みついていた白人層が、そちらの方に移住するようになる。いわゆるホワイト・フライトのような現象だ。1965年に移民改善法が成立し、家族を呼ぶことができるようになるとラテン・アメリカやインドの専門家達が、こぞって家族を呼び、ジャクソン・ハイツに居を構えるようになる。
 1970年代半ばになると、ルーズベルト・アベニューがジャクソン・ハイツの商業センターになり、また組織的犯罪の拠点として全国レベルでの関心を呼ぶようになる。1970年代後半には、1年間で9人の殺害事件がここで起きる。1990年にプエルトリコ人の同性愛者であるフリオ・リベラがヘイト・クライムの被害者として殺害されると、大きなデモ活動が起き、それが今にも続くクイーンズ・プライド・パレードが始まるきっかけとなる。
 1990年以降ニューヨーク市の治安が回復すると、ジャクソンハイツのコロンビアのコカイン関係の犯罪も減少していき、現在の多様な人々が住むネイバーフッドになっていく。
 ジャクソン・ハイツのことをざっと整理すると、こんな感じになる。さて、ブルックリンのホテルからG号線と7号線を乗り継ぎ、82番街の駅で降りる。7号線はルーズベルト・アベニューの上を高架で走っているのだが、上を走っている時にはまったく気づかなかったような世界が駅を降りると展開している。いきなり、トウモロコシとシシカバブーを鉄板で温めながら売っている屋台が目の前に展開する。周りの店舗は、どぎつい原色の看板を立てており、それらの多くは英語ではない。スペイン語のものが多いが、アルファベットでないものもある。香港を彷彿させもするが、もっとさらに色彩はどぎつい感じがする。
 ここがニューヨークであるとはとても思えない。というか、アメリカ合衆国とはとても思えない。それじゃあ、中南米か、と言われると決してそうでもない。ラテン・アメリカとインドなどの南アジアのテイストが混在している。高架の地下鉄が頭の上を走っているので、むしろブレードランナーの世界を彷彿する。
 ここでは私はまったくの異邦人だ。この異邦人感覚は相当、強烈である。そして、ちょっと緊張もさせる。私はアフリカのルワンダや、マレーシアのスラヴェシ島、パナマやパラグアイなどにも行ったことがあるが、そのどこよりも緊張したかもしれない。いや、パラグアイのシウダ・デ・エステではここよりも緊張したとは思うが、一人で歩いているということもあり、なかなか強烈な刺激を五感が感じ取っている。そして、強烈なアーバニティに溢れている。そのアーバニティは弱肉強食的な雰囲気が強いようなものだが、ちょっと東京などでは感じられないアーバニティである。むしろ、大阪の難波あたりとは共通するところがあるかもしれない。
 いやはや、映画を観ては分からないジャクソン・ハイツの都市としての凄みを感じることができた。そして、夕食をここのラテン・アメリカ料理屋でしたのだが、ニューヨークに来て、初めて料金に見合うまともで満足できる料理を食べることができた。生活文化の質もここは、ニューヨークの他の地区よりは秀でているような気がする。強烈なオーセンティシティを感じる、オンリーワン的な街であった。大いにたまげた。


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