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学生に不足しているのは世界を知り、自分を語るためのボキャブラリーである。 [教育論]

大学の教員をして16年経つ。最近、大学を移った。これは、それまで自分の専門外である経済学科で教えていたのだが、残りの時間は自分の専門分野(都市計画、都市政策)で学生を教育指導、研究指導をしたいと考えたからである。それは、ともかく、大学、そして学部を移っても直面しているのは、学生の好奇心の無さである。前任校の経済学科は、経済学科の先生を育成するためのカリキュラムで指導をしていたりしたので、そりゃ学生も大学の講義とかに関心持つのは難しいよな、と思っていたのだが、現在の政策学科は、学生の好奇心を喚起させるような工夫を凝らしているのに、それほど学生が関心を示さない。というか、私は今、ラーメンをテーマにしているのだが、それはゼミ生がラーメンは好きだと言ったからだ。ちなみに私は好きではない。それなのに、ゼミの研究課題であっても、そして自分達が好きだといってもラーメンに対して、関心を示さないし、とりあえず食べに行きなさいと言っても食べに行かない。驚きの好奇心の無さである。私は、学生への手前、最近、ラーメンばかり食べるようになったのだが、それによって一つ分かったことは、ラーメンをあちこちで食べていたら、なんとなくラーメンが理解できるようになったことだ。少なくともラーメン批評などを読むと、前よりかは理解できるようになっている。
 さて、これは私がラーメンのボキャブラリーを多少は獲得したからだと思われるのだ。ラーメンを表現するためには、例えば「豚骨醤油」、「家系」、「大勝軒」、「鶏白湯」、「一乗寺」、「喜多方」、「とみた」、「二郎系」などのボキャブラリーが使われるが、これらの意味とそれが示す内容を知っていないと、そもそもラーメンのことが語れない。そして、こられのボキャブラリーを知るためには、それらを知っている人に聞いたり、本や映像を観たり、さらには食べていないと分からない。「二郎系」はその店で食べて始めて、その凄さというか異様さを知ることができると思う。「一乗寺」のラーメンがいかにどろどろかは、「極鶏」に行きラーメンを食べて初めて分かるというのがあると思う。
 以前、伏見区役所の職員が、伏見区のブランディングというテーマで大学に来て話をしてくれた。そこで、私のゼミ生が「伏見のラーメンはどうですか」という質問をしたら、この職員は「大黒ラーメンが有名ですね。私は食べたことがないけど」と回答したのである。ある意味、正直かもしれないが、伏見区のブランディングをする仕事を京都市民から税金を徴収してやるのであれば、少なくとも有名どころのラーメンぐらい食べておけよな、と私は強く思った。というのは、そもそもブランディングという概念は言葉でつくられる。その言葉がしっかりと理解できないと、町のブランディングができる訳がない。ちなみに、ここでいう言葉とは「大黒ラーメン」であり、それには、大黒ラーメンの麺の太さ、スープの種類や味わい、そのお店の雰囲気、料金、お客さんなどの情報が含まれたものとなる。この職員は、ちなみに「伏見は何と言っても日本酒です」というので、私は思わず「失礼ですが、日本酒を飲まれますか?」と質問したら「いや、私はワイン派です」と答えたのでほとんどキレそうになった。というのも、そもそも私はこんなに日本酒という素晴らしいお酒がある国に住みながら、ワインという輸入酒が美味しいと感じる舌の鈍感さや、ワインの日本酒に比するコスパの悪さを考えるとその経済感覚をそもそも疑うものであるが、伏見でブランディングをしていてろくに日本酒を知らないのに、平気で「伏見は日本酒です」と言ってしまう不誠実さに呆れたからである。この職員は日本酒というボキャブラリーが圧倒的に不足していたので、彼の話す言葉はほとんど意味をなさないし、聞くにも値しない。英語の語彙がほとんどない人の英語を聞いているようなものである。ちなみに、日本酒をちょっとでも嗜むものであれば、伏見こそ日本酒のブランドを駄目にしている張本人であることぐらいは、理解できる筈である。
 話がちょっと横に逸れてしまったが、この伏見区の職員のような学生が最近、本当に増えてきたと思う。学生は別に職員と違って、それで給料をもらっていないので社会に迷惑はかけてはいない。しかし、このボキャブラリーがないことで、思考力や理解力を大きく減じてしまっているし、表現力もなく、その結果、コミュニケーション力もない。まあ、これは昔もとりあえず「可愛い」、「やばい」、「むかつく」というある対象に向けられた条件反射的な感情の言葉だけで会話をしていたと指摘されていたりもしたので、今だけの問題ではないと言われるかもしれないが、今は、そもそもある対象に向けられる関心も失われているかもしれないなと思う時もある。何も、このボキャブラリーが大学の講義で学ぶようなものじゃなくても全然、構わないのだ。そして、それは言語でなくても構わない。ダンスでの表現力や、楽器、絵や写真といったものでもいい。百聞は一見にしかずではないが、うまく言語で表現できなくても構わない。ただ、当然であるが、楽器で表現するためのボキャブラリーを獲得することも大変だ。ギターであれば、ボキャブラリーはコードになるのかもしれないが、それを増やさないと豊かな表現をすることは覚束ない。スリー・コードだけでは勢いは感じられるが、細かいニュアンスはとても伝えられないであろう。もちろん、ボキャブラリーだけではなく、ペンタトニック、ドミナント・スケールといった文法も覚えなくてはならないが、それもボキャブラリーが獲得できてからこそであろう。
 私はここ数年、英語教育に関心を持つようになっているのだが、それは日本の英語教育だと、まったく英語ができるようにならないこと、にいらだたしさを覚えているからだ。そして、これはまだ仮説ではあり、一度、大学の講義で実験したこともあるのだが、英語を日本人が出来ないのは、圧倒的に語彙不足が原因なのではないかと考えている。語彙が少ないので、そもそも表現することができないのだ。そして、最近、うちのゼミ生をみていて、この語彙が少ないのは何も英語ではなくて、日本語もそうであるということに気づいたのだ。そして、語彙を増やそうともしていない。ラーメンが好きであるといっているのに、ラーメンを理解するための語彙を全然、増やそうとしない。
 これは、ここ10年間ぐらいでの学生をめぐる大きな変化かもしれない。昔であれば、例えば鉄道に関しては、鉄道オタクがいて、鉄道に関する圧倒的なボキャブラリーを有していた。そういう学生は、アルバイトも鉄道会社の駅員をしたりして、車輌やダイヤ、駅弁などに関しても豊富な情報(語彙)を持っていた。同様のことはカメラとか、ギターとか、AV女優とかでもいた。もちろん、現在でもそのような学生がいない訳ではない。例えば、前任校の卒業生でほとんどのプロ・ミュージシャンとして活躍している「宇宙団」の望月美保は、日本のロック・ミュージシャンに関しては相当、詳しく、私は随分と彼女から教わることが多かった。しかし、だからこそ彼女は第一線で活躍できているとも言える。ボキャブラリーを有しているからだ。
 人は「言語」で思考する。ボキャブラリーが多ければ多いほど、より豊かな思考を展開することができる。すなわち、ボキャブラリーと思考力とは高い相関関係がある。また、それによって表現力も増すので、コミュニケーションも円滑にすることが可能となる。そして、ここで「言語」と表記したが、それは何も言葉でなくてもいいのだ。「エリック・クラプトンのような泣きのギター」、「伏見桃山のひかりのようなつけ麺」、「ゴッホのひまわりの絵のような色彩」、「『アニー・ホール』のウディ・アレンのような失恋」、「奈良萬のような豊穣さ」、「ガウディのグエル公園のような色彩」・・・。このようなボキャブラリーを持つことで、世の中を広く理解し、それは世の中で生きていく自分をも知ることになる。そのことで、自分の人生も豊かになり、魅力的な人になっていけると思うのだ。
 このボキャブラリーが、なんか今の学生には本当に欠けていると思う。お金がないといって安居酒屋で飲み、ファストフード店で食事を済まし、恋愛もコンビニエント感覚でやり過ごし、就職に関しても、何がやりたいかとかではなく、大学のポジショニングだけでとりあえずどっかの企業に潜り込もうとする。他人の人生のことをとやかく言う資格はないが、このボキャブラリーの多寡によって、豊かな生を送れるかの社会格差が生じるような気がするのである。せっかくの人生、そしてボキャブラリーを増やす機会があるのに、それに力が入れられないのは由々しき事態であると思う。
 

 

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