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飲み屋の店長について、ちょっと考察した [商店街の問題]

私は下北沢でよく飲む。とはいえ、下北沢の数多あるバーをくまなく行っている訳ではなく、常連のお店3軒を飲み歩いているだけなので、下北沢という街に惹かれているという訳ではなく、この3つのお店に惹きつけられているというのが正解であろう。もちろん、下北沢にいても食事はちょっと別のところでしたりする場合があるが、最終的にはこの3軒のどちらかに顔を出してから帰宅する。この3軒のうち、2つに関しては、英語版の拙著『Global Cities, Local Streets』(Routledge著)でも紹介している。
さて、この3つの店のうちの一つが店長が替わった。私はオーナーと友人であり、店長が替わったことで、ちょっとビジネス・モデルも変えなくてはと考えているらしく、いろいろと試している。私の家にも葉書が来て、ちょっと顔を出して欲しい、ということが書いてあったので、平日の早い時間、オーナーがいないことは分かっていたが、顔を出した。さて、新しい店長は常連客であったミュージシャンである。以前からお互い同士を知っていた。しかし、どうも私が気に入らないようで、私も気に入られていないことは分かっていたが、まあ、常連客が皆、仲がいい必要はない。店に迷惑がかからないように距離を置いていればいいだけの話だ。会社とか、学校とかでもよくある話である。
ただ、それは同じような立場の時においてである。同僚、お客同士であれば、個人の感情が露わになっても構わないと思うが、店対客であれば、そのような場合、ちょっと配慮があって然るべきであると私は思う。しかし、この店長は私が店に来ると、結構、あからさまに嫌な顔をした。そして、実際、用事があったのかもしれないが、そそくさと店を出て行った。ちょっと私は驚いたのと同時に、ここが例え友人がオーナーをしている店であっても、おそらくオーナーと一緒でなければもうここには来ないだろうなと思った。お金を出して、人に嫌がられる必要はない。バーに行くのは美味しいお酒を飲むことが目的である。お酒の味は、その場の雰囲気、一緒に飲む人によって変わってくる。だから、同じお酒を出していても流行る店と流行らない店があるのだ。
あと、新しく店長を務める人はなかなかのロック・ミュージシャンである。気骨のある人で拘りがあるのだろう。私のようなへぼなミュージシャンには愛想を振りまくたくないのかもしれない。その気持ちは分からない訳ではない。ただ、そこまで拘るのであれば、キャロル・キングとビートルズを店内でアルバム通してかけるようなことはしない方がいいのではないか。誰でもつくれるようなオムレツとハムを料理に出すようなことはしない方がいいのではないか。いや、キャロル・キングもビートルズも個人的には嫌いではないが、そのような一般受けする音楽を堂々とかける程度の個性であれば、客もそれほど選べない筈である。少なくとも、私はオーナーの友人であるし、比較的常連の部類であるかと思う。店が客を選ぶことはできると思うが、それは、強烈な個性を発揮できる場合だけではないだろうか。
例えば、下北沢にはイーハトーブという拘りの喫茶店がある。私は、このマスターにあまり良い印象を与えないような客のようで、結構、ぞんざいに扱われていると思う。しかし、そこで流れる音楽はいつも私を唸らせる。コンシェルジェというかDJとしてのマスターの能力が秀でているのだ。そして、そのこじんまりとした空間、さらにはしっかりと淹れている珈琲は、マスターの無愛想を気にさせない。というか、マスターの気に障らないように振る舞わなくてはと思わせる。こういう気持ちは、特別に美味い寿司屋などでも感じる。
まあ、前述した店長は、自分はそういう人間であると思っているのであろう。ミュージシャンであれば、そのような自意識も必要かと思うが、平凡な料理、凡庸な音楽を流すバーの店長であるなら、そういう自意識は捨てた方がいいかと思う。ミュージシャンとバーの店長はまったく違う仕事であると思うし、そしてミュージシャンであっても、多少、謙虚でいた場合がいい時もあるとも思う。

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関西国際空港は、なぜか汚らしい印象を与える [都市デザイン]

関西国際空港は、なんか洗練されておらず汚らしい印象を与える。関西国際空港を設計したのはイタリアを代表する大建築家、レンゾ・ピアノである。本来なら、もっと風格があってもいい筈なのに、難波の商店街の猥雑感というか、ドンキホーテのインテリアのような下品な汚らしい印象を覚えさせる。ドンキホーテはそれを商売的な戦略としてやられているのだが、関空はなぜ、こんな印象を私に与えるのだろうか。

一つは、広告板がどぎついからではないか。なぜか、赤・黄・青がよく使われる。それにピンクである。この色彩感覚は、秋葉原や大阪の日本橋の電気街を彷彿させる。この空港は看板規制とか、デザイン規制とかは一切してないのだろうか。また、その看板のサイズがなんか大きい。郊外の幹線道路の沿道のようでさえある。そもそも、空港は飛行機を乗るためにある施設であり、商業空間ではない。ある意味、アジア的とも捉えられなくもないが、こういうデザインが街には氾濫している香港や台北、南京、北京、シンガポールであっても、空港は玄関口としての威厳というか品性の良さのようなものをしっかりと表現している。なんなんだろう、関西国際空港。

要因として、もしかして考えられるのは、レンゾ・ピアノの代表作であるパリのポンピドー・センターを意識していることである。ポンピドー・センターは赤・黄・青の色が使われており、その強烈さはつくられた当時は相当、物議を醸したが、現在はパリ市民に受け入れられている。なんか、関西国際空港で使われている赤・黄・青はポンピドー・センターをちょっと連想させるのである。とはいえ、ポンピドー・センターは文化施設であり、関西国際空港は公共性の高く、そして都市の玄関口としての施設である。空間デザインも、そのような奥ゆかしさというか、風格がもっと求められてしかるべきであると思う。

まあ、大阪らしいといえばそれまでだが、そういう難波的というかお好み焼き的な分かりやすい大阪以上のものが大阪という都市にはある筈である。むしろ、訪れた人が襟を正す、というか難波的、お好み焼き以外の大阪があるんだな、というような印象を与えられる空港にした方がいいのではないかと思ったりする。陸の玄関口の新大阪のだらしなさを考えると、せめて空の玄関口の関西国際空港ぐらい、しゃきっと出来ないのだろうかと思わずにはいられない。

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(強烈な赤・青・黄色の配色)

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(このピンクは何だ!)

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(看板のように蔽われた壁)

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(この青と黄色の旗は、ピアノの美しい線形に落書きをしているような効果を与えている)

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(こういう小さなスペースにも広告を入れたがるせこさが、ピアノの設計空間を台無しにしているように思えてならない)

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揚州の料理屋で素晴らしいガストロミー体験をする [地球探訪記]

南京に来ている。そこで、揚州出身の先生に実家のある揚州の料理屋に連れて行ってもらった。そこは、地元のお客さんを対象にやっている庶民的な料理屋で、揚州料理専門であったのだが、相当、美味しい食事体験をすることができた。
 お酒は老酒のような蒸留酒で46度という相当、強烈なものだったので時差ぼけがまだ取れていない私は遠慮がちに飲んだが、ガチョウの水煮(揚州では南京とちがってアヒルではなくガチョウを食べるらしい)、高菜と豆腐のようなものの炒め物、豚肉を蒸したもの、タケノコと豚の角煮とキクラゲのスープ、ニンニクの茎のようなものとベーコンを炒めたもの、川海老の煮物など、どれもが食材の美味しさを活かした美味しい料理であった。そして、締めは混ぜ麺と春菊と卵のスープ。
 私は日頃から、日本食が圧倒的に世界で一番美味しいと考えている傲慢な輩であるのだが、たまに思わず、その高慢ちきな鼻をへし折られる経験をする時がある。それはタイのイーサン地方で絶品のローストチキンを食べた時、デリーで本場のインドカレー食べた時、ブエノスアイレスでピカーニャのステーキを食べた時などがそうだが、そのような鼻をへし折られる経験をすると謙虚な気持ちになるのと同時に、ちょっと美味しいものに出会えた幸運に感謝する気持ちにもなる。今日は、そんな日であった。衝撃的な素晴らしいガストロミー体験であった。ちなみに、私は残念ながらフランスでは、このような経験を一度もしたことがない。
 
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<お店の外観>

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<店の前の街並みはこんな感じ>

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<ガチョウの塩水煮>

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<何かの野菜の茎とベーコンの炒めもの>

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<タケノコと豚の塩煮とキクラゲのスープ。絶品>

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<混ぜそば>

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<左がここの店主。真ん中にいるのは、我々をここに連れて行ってくれた大学教員>

タグ:揚州 料理
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中国では検索サイトが使えない [グローバルな問題]

南京ではインターネットは使えるが、検索サイトは使えない。グーグル、ヤフーが一切、使えず、これって相当、インターネットを不便にさせることに改めて気づかされる。メールは問題なく使える。さらに、検索サイトが使えないというだけで、サイトのアドレスを覚えさせているものはしっかりと閲覧することができる。例えば、食べログや金融関係、アップルのサイトなどは大丈夫だ。一方でアマゾンやユーチューブ、フェイスブックは駄目である。また、ポケモンGOは開くことはできるが、位置情報が機能しないので、基本的に遊ぶことはできない。
なんか、それはそれで不便ではあるが、アメリカによる大統領選でのロシアによるこれらSNSを用いた世論操作の影響力の大きさなどを鑑みると、中国政府がこれらをシャットアウトしたい気持ちを持つのは分からなくもない。アメリカのマスコミはまだ持ちこたえてはいるが、ロシアなどのSNSによる世論操作と、大統領自らマスコミなどをフェイク・ニュースと叫んでいる実態を考えると、まあ中国政府はこんなツールを民衆にもたらせても彼らにとってはろくなことが起きないなと考えるのは理解できなくもない。といいつつ、ホテルの部屋には習近平の顔が表紙の「中国の統治」という本がバイブルのように置かれているのをみると、そのようなインターネット規制が中国政府にとっては都合がよくても、果たして国民にとって幸せかどうかは疑わしい。
ただ、そのような中国の状況に接すると、既存のマスコミを、ロシアなどからの援護射撃を受けつつSNSを用いて攻撃しているトランプ大統領は、本当、何を目的として行動しているのであろうか。おそらく自分の利益のため、そしてその利益をもたらしてくれるロシアのためであろう。ロシアはアメリカがガタガタになれば、しめたものだからだ。少なくとも、アメリカ国民のためでないことは確かである。そして、それを支持しているのが皮肉なことに3割近くの国民。自分の身体を蝕む癌細胞にせっせと栄養を与えているような行動を、この3割近くはしているのである。いやはや、インターネットは人民の味方にもなるが、使い方をまちがえると巨大な敵にもなる諸刃の刃であることを、中国のインターネット規制を通じて改めて気づかされる。



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南京を訪れる [地球探訪記]

大学の校務で南京を訪れる。南京は始めてである。というか、私は中国はチベットにしか、行ったことがなく、それ以外だと北京空港のそばでトランジットで1泊したぐらいなので実質的には初中国である。
 さて、南京に飛行機で着陸するちょっと前あたりから、何か空気に異臭が漂っているような気がしてきた。いや、機内に外気が入る筈はないのだが、なんか臭い。これは大気汚染のためかな、と思ったりもするのだが、偶然かどうかは不明だ。とはいえ、私が1970年代に住んでいたロスアンジェルスを彷彿させるように大気は汚染されている。
 南京国際空港は、関西国際空港より遙かに立派で風格があった。空港だけみれば、南京の方が大阪より遙かに先進的で進んでいるような印象を受ける。その後、同僚の先生の知り合いの中国の先生の車でホテルまで向かう。ホテルは南京の繁華街の中心にあるようで、周りは多くのレストランやお店が立地している。この商店街は最近、自動車の流入が禁止され、歩行者だけが歩くことができる。その空間は、森ビルが開発した六本木ヒルズのようであるが、民間の開発のマーケティング的いやらしさはそれほどなく、そこに立地している屋台は地域性をプンプンと発している。それでいて、空間デザインは洗練されている。日本の都市よりどちらかというと、アメリカの都市のそれと近い。サンタモニカのサード・アヴェニューみたいなイメージだ。
 この商店街にあるナイト・マーケット的な屋台で、鴨の血でつくられた豆腐、小籠包、雲呑スープなどを食す。紙の容器で出されてきた料理は、相当、観光客向けのチープなものだと思われるが、いや、なかなかいける。二週間ほど前にいたパリより味という観点ではレベルが高いと思わせる。
 その後、ちょっとした運河を巡るクルーズのような観光船に乗る。これは45分間、運河を周遊するものであるが、ほとんどディズニーランドのジャングル・クルーズのようなノリであった。とはいえ、初めて南京を訪れた私は結構、楽しめた。
 中国は初めてであったが、台湾には何回も足を運んだことがあるので、基本、台湾と似ている印象を受けた。もちろん、よりよく知れば違いが見えてくるのかもしれないが、戦後、つくられたと思われる建物などにも共通点が見られる。
 これまで主に研究的観点から、中国というパンドラの箱を開けたら、もう余生を考えると、絶対消化しきれないと避けていたところがあったが、来たらまた好奇心がむくむくと湧いてきた。本当、今、欲しいものは時間と集中力である。

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<21世紀になってから、この商店街からは自動車が排除された>

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<ちょうど提灯祭りがやられている時に訪れたようだ>

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<これは鶏肉ではなくアヒル肉を蒸したもの>

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<観光船の乗船場。ライトアップやネオンによって鮮やかに夜の街が照らされている>

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<運河を周遊する観光船からの光景。若干、テーマパーク感が強い>
タグ:南京
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若者は本当はそんなにラーメンが好きではない [B級グルメ雑感]

私のゼミ生は好き嫌いが多い。ソーセージが食べられない、ネギが食べられない、トマトが食べられない等、もう食べられないもの尽くしだ。しかし、そのゼミ生が異口同音に「ラーメンは好きだ」と言う。それじゃあ、ラーメンを調べるか、と言ってラーメンをゼミで調べることにした。とりあえず、そこで設けたゼミの課題は「伏見・深草周辺のラーメン屋のラーメンを食べること」である。この課題を通じて、ラーメンについてゼミとしていろいろと知識や知見が集積されるだろうと期待した。
 さて、しかし、ゼミ生はこれらの課題をしない。少なくとも、これまでラーメンを食べていたペースよりラーメンを食べたような形跡は一部の女子学生を除くと見られない。普通、ゼミの課題がラーメンを食べて、その特徴をラインにアップするというものだったら喜ぶのではないかと思う。しかし、そうではなかったのである。
 それで分かったことは、ゼミ生はとりあえずラーメンが好き、というと格好いいので言っているだけだということだ。これは、なんか私のような50代のオヤジが現在、クィーンが好きだというと、時代的に正しいというのと似ている。本当はそんなに好きでもないのに、好きというと「通」というか「分かっている」ように思えるので、とりあえず言っている。これは、団塊の世代のオヤジ達が、ビートルズをろくに聴いていなかったのにビートルズが好きだった、というのと同じである。リバプールとか一緒に行くと、やたらビートルズゆかりの観光施設に連れて行けとこのような団塊の世代オヤジは主張するので、ストロベリー・フィールズやペニー・レーン、キャバーン・クラブに連れて行っても、それらの場所の意味も分かっていなかったりするが、そういう団塊のオヤジと同様なのではないかと思うのである。
 ラーメンがあまり好きでない、とか言うものならば、ちょっとグルメじゃない、というか分かってないね、とか言われるような雰囲気が若者の間に漂っているような気がする。ということで、皆、若者はにわかラーメン評論家ぶりたがり、皆ラーメンが好きだと演じるのだが、実はそんなに好きじゃない、ということがゼミの課題をラーメンにして分かった。
 なぜなら、麺類でいえば好きな順で、うどん、そば、パスタ、ラーメンという私の方がラーメンをどの学生よりも食べたからである。そして、ラーメンが好きでもないのに、たくさんのラーメンを食べていたら、何となくラーメンが見えてきた。例えば、京都ラーメンは大きく2つ(第一旭系の近藤製麺を使う醤油豚骨系と極鶏に代表される一乗寺を中心としたどろどろ系)に分類されることが分かったし、つけ麺きらりがこれだけ支持されるのは麺が美味しいからだ、なども昔ならよく分からなかったが、たくさんラーメンを食べることで見えてきた。
 ビートルズのよさを知るには、ビートルズの曲を聴きまくることが必要である。というか、好きだったら聴きまくるであろう。私は、ほとんどビートルズの曲をジョンがつくったか、ポールがつくったかを判別できる(ジョージは当たり前)。これは、聴きまくったからである。ラーメンも好きではないけど、たくさん食べていたらちょっとラーメンが分かってきた。とはいえ、それでラーメンが好きだとは言えない。
 消費社会においては、自分のイメージが、何を消費するかで形成されてしまうという側面がある。そのため、自分が実際は消費していないのに、こういうことを消費しているという情報を発することで自分のイメージを操作しようとするのは、分からなくもない。ただ、自分が好きでないものや理解していないもので無理矢理、イメージを形成させようとしなくてもいいんじゃないかな。
 ちなみに、私も昨今のクイーン・ブームで『ボヘミアン・ラプソディ』を観たり、また、ちょっとクイーンの曲を聴いたりしたが、改めて気づいたのは、私が愛するジェネシスはもちろんのこと、クラプトンやイエス、ドゥービー・ブラザース、ZZトップ、ツェッペリン、イーグルスとかの方が個人的にはクイーンより好きだな、ということである。悪くはないけど、そんな素晴らしくもない。
 別にラーメンが好きじゃなくてもいいのだから、好きだといって自分を誤魔化す必要はない。ただ、好きじゃなくても、ラーメンがゼミの課題になったのだから、しっかりと課題をこなす(ラーメンを食べる)ことをしないと駄目だ。食べることによって初めて、ラーメンが見えてくるし、それによって、自分がラーメンを好きなのか嫌いなのかも分かる。それはラーメンという視座によって自分の存在を確認する行為でもあるのだ。逆にいうと、ラーメンをしっかりと食べていないから、ラーメンが好き、と無責任に言えるし、70年代の音楽をしっかりと聴いていなかったら、安易にクイーンが好きとも言える気もするのである。
 まあ、このクイーンのことに関しては、相当、反論もありそうなので、また機会があったらこの考えについてもう少し、丁寧に書いてみたいとも思う。とりあえず、今日の駄文では、若者はラーメンが好きというと格好がいいので、そう言っているだけで、本当は好きでないということを指摘したかっただけである。
 

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パリは本当に美食の都なのか? [B級グルメ雑感]

パリは「美食の都」というイメージがある。しかし、私はこの説に30代中頃から疑いを持っていて、それはパリを訪れるたびに確信に近くなっている。ただ、私がそう主張すると、ほとんどの人が「それはお前の舌の方が間違っている」と批判するので、もしかしたら私の方が間違っているのかもしれないな、と謙虚な気持ちになり、パリに来るとたまに美食体験を試みたりする。
パリは最近では一昨年の夏、先月(2月)と来ているが、パリ市内はバリアフリーではないし、宿も異様に高いので、前回の二回はシャルル・ド・ゴール空港のそばにて泊まった。したがって、パリ市内で食事をするのは昼だけにしていた。しかし、今回は他の大学の先生と一緒なので、久しぶりにパリ市内に滞在することにして、この先生がグルメということもあり、結構、美味しいものを二人で探索することにしたのである。一応、仕事もあったりしたので、仕事先のカフェテリアで昼ご飯を食べたりもしたが、それ以外は比較的有名店を訪れた。ちょっと、その外食体験を通じた感想のようなものをここに記したいと思う。
宿はパッシー地区で取った。パッシー地区はオスマンがパリの都市大改造をした時に、開発されたブローニュの森そばの住宅地である。最初の晩は、ホテルそばのオイスター・バーで牡蠣と白ワインを注文した。店名はLe Lallye Passyで、カウンターにはオヤジしかいない店であった。オヤジしかいない店は、大抵、美味いと相場が決まっているが、ここは牡蠣は悪くはないが、とりたてて美味しいというものでは決してなかった。日本で食べる方がずっと美味しいし、先月訪れたバーリの生ムール貝の方が遙かに美味しい。その後、ちょっとオイスターだけではお腹が空いたままなので、またホテルそばにあるAero Restaurantに行った。ここでは、チキンを焼いたものを注文したのだが、日本の気の利いた定食屋の方が美味しいような代物であった。添えられたサラダもフライドポテトも今一つだったが、ワインはそんなに悪くはなかった。
二日目は、朝食は近くのカフェでクロワッサンとタルト、そしてカフェオレを注文する。カフェオレは機械でつくるので評する必要性もないが、クロワッサンは流石、パリと言わさせるだけの美味しさであった。バターがちょっと日本とは違うのかもしれない。というか、バターが相当ふんだんに入っている?洋なしのタルトも梨とバターがふんだんに使われていて、これは美味しかった。というか、パリ4日間でもっとも美味しかった可能性もある。
昼食は、旧証券取引所のそばにあるレストラン、Vaudervilleに行った。これは特に行こうと思っていた訳ではないのだが、たまたまお昼時にこのお店の前を通ったら、えらい繁盛していたので、これは外さないだろうと判断して入ったのである。注文したのはクロック・ムッシュ。これは、本場のクロックムッシュが食べたかったからである。これは、トーストが3枚のものにハムが挟んであり、上にチーズがどかんと乗っているもので、なかなかの食べ応えがあった。最初は美味しいと思ったのだが、だんだん飽きてきた。まあ、とても洗練されているとは言い難いが、チーズはなかなか美味しいと思った。
さて、その日の夜は、パリ在住10年という人に夕食に連れて行ったもらった。これは、絶対期待できると胸を躍らせたのだが、連れて行ってもらったのは、なんとビストロ・ヴィヴィアンヌであった。ビストロ・ヴィヴィアンヌは個人的にパリで最も好きな空間であるヴィヴィアンヌ・ギャラリアの入り口に位置するビストロでとてもお洒落である。前から気になっていたのだが、夏にパリに来ると凄い長蛇の列でほとんど入る気をなくす。しかし、先月(2月)に来た時は全然、空いていたので念願叶って初めて昼に入ることができた。白ワインとエスカルゴ、そしてシーザーサラダを注文した。流石、エスカルゴは美味しかったし、シーザーサラダも悪くはないが、パリは美味い料理があるなあ、と感心するほどではなかった。この程度であったら、日本のフランス料理屋の方が美味しい。とはいえ、白ワインのコスパは悪くはなかった。とはいえ、パリ滞在10年の方が満を持して?一緒に夕食に連れて行ってもらった店がここであるのはちょっとショックであった。というのは、ここはパリ在住10年でも美味い店として認識されていることに落胆したからである。というのも、パリ在住10年であれば、私のような輩が見つけられないようなお店を教えてくれるのではと期待したからである。ここで注文したのは、エッグ・ベネディクトとフォアグラがラーメンのつけ麺のスープのようなものに入った料理であった。つけ麺のスープと同様に葱がなかなかいい味を出していた。悪くはないけど、ちょっと肩透かしであった。とはいえ、パリの美味しいお店を未だに発見できていない私としては、ここは他のお店よりはずっと親しみが持てる。加えて、ワインのコスパはよかった。ただ、このお店がリモージュとかリールであったら納得だが「美食の都」とその名を知られるパリの名店かというと、やはりがっかりしてしまう。日本のフランス料理の方が美味しいとずばり、思う。
 その次の晩は池波正太郎がパリ滞在時によく行く店としてエッセイに書いていたりして知られるAu Pied de Cochonを訪れる。これは、新しく整備中のネルソン・マンデラ公園の前にある。パリジャンヌにも人気であるという解説であったが、土地柄か観光客が多い気がする。フランス語よりも英語の方が聞こえる。そして、サービスがまあ感動的に悪い。というか、パリのレストランは決してサービスがよくないがそれらに比べても驚くほど悪い。これは日本人だからなめられているのかもしれない。注文したワインはクレームをするまで来なかったし、また周りのテーブルには来ていた付け足しのオリーブも督促するまで来なかった。赤ワインと豚肉のコンフィを注文する。赤ワインは流石にそれほど値段の割には悪くない。豚肉のコンフィもまあ悪くはないが、有り難がるほど美味しくはない。ドイツのハクセンシュヴァインや日本の豚の角煮の方が美味しいくらいだ。庶民的な定食屋という雰囲気は悪くはないかもしれないが、インテリアの趣味はどちらかというと無粋で洗練されていない。池波正太郎の味覚も店の意匠センスをも個人的には疑う。
ということで、今回のパリ滞在も食事に関しては悲惨であった。というか、本当、パリには10回は来ていると思うが、唸るように美味しいものに出会ってない。納得するものはワインとチーズだけだ。しかも、チーズはどちらかというとフランスの田舎の方がパリのものよりも美味しい。そうそう、今回は日本人にも大人気のチョコレート屋、ジャック・ジュナンにも訪れ、お土産用に1万円ほど買ったのだが、買った直後に「生チョコなので2週間以内に食べて下さい」と言われて、しょうがなく家族以外のお土産で買ったものは自分で食べたのだが、これはなかなか美味しくて流石と思ったが、この値段であったら日本でもほぼ同じものは入手できる。自由が丘のパティスリー・パリセヴァイユも負けていない。とはいえ、ここのチェコレートは不味いとは決して言えない。そういう意味では、ワイン、チーズ、チョコはパリの美味いものであるとは言えるかもしれない。あと、クロワッサンかな。今回、滞在したパッシー地区の総菜屋デパートに入っているパン屋のクロワッサンはバターがたっぷり使われていて美味しかった。とはいえ、これだけで「美食の都」というのは看板に偽りありだと思う。

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<オイスターバーの生牡蠣>

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<Aero Restaurantのチキン>

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<ビストロ・ヴィヴィアンヌのエッグ・ベネディクト料理> IMG_0073.jpg <Au Pied de Cochonの豚のコンフィ> IMG_0074.jpg <唯一、サービスがよかったシャルル・ド・ゴール空港内のレストランでのサラダ料理>
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電気グルーブがCD回収・配信停止されるのであれば、同罪のミュージシャンにも同じ措置を採るべきであろう [ロック音楽]

電気グルーブのピエール瀧が薬物使用の疑いで3月12日に逮捕された。それを受けて、翌13日には電気グルーヴのCD回収・配信停止などが発表され、Apple Musicでは15日現在、電気グルーヴのアーティストページは確認できるが、瀧容疑者名義でない数曲を除き、再生できない状態となっている。
コカイン使用が悪いのは当たり前だが、それでCD回収・配信停止をするのであればレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ、リトル・フィート、エリック・クラプトン、ホイットニー・ヒューストン、エイミー・ワインハウス、ウィルコ、クワイエット・ライオット、ザ・フー、ラット、ラモーンズ、ザ・バンド、ザ・グレイトフル・デッド、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、シン・リジィ、セックス・ピストルズ、フリー、ディープ・パープル、ユーライア・ヒープ、ジャニス・ジョプリン、フリートウッド・マック、ドゥービー・ブラザースなどもCD回収・配信停止にするべきだ。というか、ここに挙げたのは私が今、気づいたアーティストだけなので、実際は、もうほとんどのロック・バンド、ロック・ミュージシャンのものを販売・配信できなくなるだろう。
ピエール瀧がやったことは罪であり、罰されるべきことであるとは思うが、そうであれば同じ罪を犯したものは同じように罰するべきである。それこそが法治国家の基本である。

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デーリッチュ(Delitzsch)という旧東ドイツの中小都市を訪れる [都市デザイン]

デーリッチュ(Delitzsch)というライプツィヒとハレとの中間にある旧東ドイツの都市を訪れる。なぜなら、ここは1990年の東西ドイツが統合されてから、人口が減少しては急増し、減少しては急増するという不思議な動きをしているからだ。どんな都市だろうと、この人口増減から興味を持ったのが行くことになった理由である。
さて、デーリッチュには駅が二つある。ObとUnterである。日本語でいえば、上デーリッチュ、下デーリッチュという感じであろうか。ライプツィヒから来るとUnterの駅につき、ハレから来るとObの駅に着く。両駅は400メートルぐらいは離れている。Unter駅の方がバスターミナルもあって、駅舎もあって、ちゃんとしている感じである。この駅からは商店街のようなハイ・ストリート的な道も延びている。
 デーリッチュの人口は2万5000人。東西ドイツ統一後の人口推移では、徐々に人口が減少しているが1996年と2004年に急激に増加し、そして2011年に急激に減少している。最近は安定から徐々に増加するような推移をしている。さて、1996年と2004年の急激な増加は周辺の集落を合併したためという人工的要因であることが判明した。そして、2011年であるが、これはそれまでの人口調査があまり精度が高くなく、実際、住んでいない人までもカウントしていたためそれを是正したことで大幅に減ったということが分かった。この2011年はドイツ全体の統計でもみられることのようで、なんか日本の統計調査と同じような事態だ。そういうことで、実際は、数字ほどには極端な自治体ではないことが分かったのだが、視察をしていていろいろと興味深いことを発見した。
 まず、駅からのハイ・ストリートであるが、現在、車道を狭めて歩道を拡幅する工事をしている最中であった。日本だと京都の四条がやっているようなことを、人口25000人で観光客などほとんどいない小都市でやれていることに驚く。四条だって、未だに多くの反対意見が出ているのだ。都市に賑わいをもたらすための方策はドイツ人はよく分かっている。
火曜日の昼前であるが結構、人が多く出歩いている。いや、それどころか広場前では30歳ぐらいの男性がピアノの演奏を大道芸人のようにしている。知り合いのドイツの先生によれば、ほとんど中心市街地の店舗は空き家だと言っていたのだが、実際はほとんど空き家がないような状況であった。ただ、このハイ・ストリートに賑わいをもたらしている個店、特に食堂はトルコ系やベトナム系などの移民によって営まれている。ドイツの人口縮小都市は移民によって活力をもらっている。これは、貧血で倒れそうな病人が「移民」という輸血をしてもらっているようなものではないだろうか。
 今回のドイツではコットブス市役所などでも取材をしたが、縮小都市において移民は天からの贈り物というような表現を聞いたが、確かに縮小都市においては移民がほとんど唯一の特効薬である。そういうことを、このデーリッチュのハイ・ストリートでは理解できる。
 また、郊外というか旧市街地周縁部には結構、広大なプラッテンバウ団地が存在した。前述したドイツの先生によれば、これらの多くは倒壊されたとの話であったが、倒壊された跡は多少、見つかったが倒壊率は決して高くない。私は旧東ドイツの様々なプラッテンバウ団地を見ているし、その倒壊を都市計画的にどう位置づけてきたのかに関する論文で博士号を取得しているぐらいなので、倒壊した跡かどうかはほぼ分かるのだ。
 ふうむ、事前に聞いていた話とは結構、違う印象を受けた。あと、新たに投資をして改修された戸建て住宅なども散見され、これはおそらく、このデーリッチュがハレとライプツィヒから鉄道で30分弱というベッドタウンとしては極めていい立地にあることと無縁ではないだろう。ハレもライプツィヒも人口減少が著しかったが、最近では人口増加に転じ、ライプツィヒなどは人口増加率をみればドイツでもフランクフルトなどの成長都市よりも高くなっている。このような状況が、それまでずるずると人口減少をしていたデーリッチュの立ち位置を大きく変えているのではないだろうか。
 この5年間ぐらいは、難民と移民という外力によって支えられているところがあったかもしれないが、今のデーリッチュはライプツィヒとハレのトーマス・ジーバーツが指摘するところの「ツヴィシュンシュタット」として位置づけられることで成長しているような印象を受ける。そうであれば、それまでの人口減少という課題から、郊外的開発というまったく違う課題に近い将来、直面するような気がする。

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<デーリッチュの駅前道路>

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<車道を狭めて歩道を拡幅している>

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<幅員が広く歩きやすい歩道>

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<多くのお店は移民系の人によって営まれているようだ>

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<ハイ・ストリートには人が結構、多く出ている>

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<なんと平日であるにも関わらず、大道芸人がピアノを演奏していた>
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ドイツにおける都市計画・建築分野の担当省が連邦環境省から連邦内務省へと変わった [都市デザイン]

ドイツの連邦政府に「シュタットウンバウ・プログラム(都市改造)」の政策に関する取材をするために訪れた。てっきり、都市開発・住宅部門であるので連邦環境省の下にある組織かと思っていたら、どうも2018年3月14日から、連邦環境省ではなく、連邦内務省に変更になったようだ。そして、連邦内務省の名前もBundesministerien des Innern, fuer Bau und Heimatと変更になった。これは、連邦内務・建築・故郷?とでも訳すような名称である。その背景にどのような意図があるのか、ちょっと分からないが興味深い。若干、右的なニュアンスも感じたりもしないでもない。
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『第三の男』 [映画批評]

今更ながらであるが、1949年のイギリス映画『第三の男』を観る。第二次世界大戦後の混乱のウィーンを舞台にした映画で、光と影のコントラストが観るものをスクリーン(パソコンのだが)に惹きつける映像美、どちらにストーリーが転ぶか分からないシナリオの秀逸さ、そして映画史に残るような印象的なラストシーン。
善悪が不明瞭な戦後の混乱期の中で、単純な正義感と愛情、友情といった個人的価値観で行動するアメリカ人の主人公の偽善的ないやらしさを、最後のラストシーンで一刀両断に切り捨てるアンナ・シュミット。このラストシーンは、相変わらずアメリカ的価値観で世界と渡り合えると考えているアメリカ国家への強烈な竹篦返しのように私には受け止められ、快哉を叫びたいような気持ちになったが、小説のラストシーンでは、アンナはアメリカ人主人公を受け入れることになっていることを知り、なんかとても残念な気分になった。しかも、小説ではアメリカ人であったギャングが、映画ではルーマニア人の設定になったのは、悪役の一人がアメリカ人であることを出演者の一人のオーソン・ウェルズが嫌ったためだそうだ。
しかし、小説のラストシーンでは、なんか白けた感じが残ったであろう。アンナの毅然とした態度によって、このストーリーはとても締まる。このラストシーンを主張したのは、プロデューサーのデビッド・セルズニックであったそうだ。
勝てば官軍的な戦争の中、何が正しくて何が正しくないのか。第三者には分からないいろいろな事情がある。『第三の男』は、素直に考えればハリーを指しているが、私的には、直接関係ないよそもので第三者であるホリーの鼻持ちならない偽善的な存在を、ハリー率いるギャング団とそれを追いかける国際警察という関係性と関係ない『第三の男』、もしくはハリーとアンナというカップルに入り込もうとした『第三の男』として表しているようにも感じた。
そして、そのように捉えることで、この映画の魅力がさらに引き立つようにも思ったりもした。


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学生に不足しているのは世界を知り、自分を語るためのボキャブラリーである。 [教育論]

大学の教員をして16年経つ。最近、大学を移った。これは、それまで自分の専門外である経済学科で教えていたのだが、残りの時間は自分の専門分野(都市計画、都市政策)で学生を教育指導、研究指導をしたいと考えたからである。それは、ともかく、大学、そして学部を移っても直面しているのは、学生の好奇心の無さである。前任校の経済学科は、経済学科の先生を育成するためのカリキュラムで指導をしていたりしたので、そりゃ学生も大学の講義とかに関心持つのは難しいよな、と思っていたのだが、現在の政策学科は、学生の好奇心を喚起させるような工夫を凝らしているのに、それほど学生が関心を示さない。というか、私は今、ラーメンをテーマにしているのだが、それはゼミ生がラーメンは好きだと言ったからだ。ちなみに私は好きではない。それなのに、ゼミの研究課題であっても、そして自分達が好きだといってもラーメンに対して、関心を示さないし、とりあえず食べに行きなさいと言っても食べに行かない。驚きの好奇心の無さである。私は、学生への手前、最近、ラーメンばかり食べるようになったのだが、それによって一つ分かったことは、ラーメンをあちこちで食べていたら、なんとなくラーメンが理解できるようになったことだ。少なくともラーメン批評などを読むと、前よりかは理解できるようになっている。
 さて、これは私がラーメンのボキャブラリーを多少は獲得したからだと思われるのだ。ラーメンを表現するためには、例えば「豚骨醤油」、「家系」、「大勝軒」、「鶏白湯」、「一乗寺」、「喜多方」、「とみた」、「二郎系」などのボキャブラリーが使われるが、これらの意味とそれが示す内容を知っていないと、そもそもラーメンのことが語れない。そして、こられのボキャブラリーを知るためには、それらを知っている人に聞いたり、本や映像を観たり、さらには食べていないと分からない。「二郎系」はその店で食べて始めて、その凄さというか異様さを知ることができると思う。「一乗寺」のラーメンがいかにどろどろかは、「極鶏」に行きラーメンを食べて初めて分かるというのがあると思う。
 以前、伏見区役所の職員が、伏見区のブランディングというテーマで大学に来て話をしてくれた。そこで、私のゼミ生が「伏見のラーメンはどうですか」という質問をしたら、この職員は「大黒ラーメンが有名ですね。私は食べたことがないけど」と回答したのである。ある意味、正直かもしれないが、伏見区のブランディングをする仕事を京都市民から税金を徴収してやるのであれば、少なくとも有名どころのラーメンぐらい食べておけよな、と私は強く思った。というのは、そもそもブランディングという概念は言葉でつくられる。その言葉がしっかりと理解できないと、町のブランディングができる訳がない。ちなみに、ここでいう言葉とは「大黒ラーメン」であり、それには、大黒ラーメンの麺の太さ、スープの種類や味わい、そのお店の雰囲気、料金、お客さんなどの情報が含まれたものとなる。この職員は、ちなみに「伏見は何と言っても日本酒です」というので、私は思わず「失礼ですが、日本酒を飲まれますか?」と質問したら「いや、私はワイン派です」と答えたのでほとんどキレそうになった。というのも、そもそも私はこんなに日本酒という素晴らしいお酒がある国に住みながら、ワインという輸入酒が美味しいと感じる舌の鈍感さや、ワインの日本酒に比するコスパの悪さを考えるとその経済感覚をそもそも疑うものであるが、伏見でブランディングをしていてろくに日本酒を知らないのに、平気で「伏見は日本酒です」と言ってしまう不誠実さに呆れたからである。この職員は日本酒というボキャブラリーが圧倒的に不足していたので、彼の話す言葉はほとんど意味をなさないし、聞くにも値しない。英語の語彙がほとんどない人の英語を聞いているようなものである。ちなみに、日本酒をちょっとでも嗜むものであれば、伏見こそ日本酒のブランドを駄目にしている張本人であることぐらいは、理解できる筈である。
 話がちょっと横に逸れてしまったが、この伏見区の職員のような学生が最近、本当に増えてきたと思う。学生は別に職員と違って、それで給料をもらっていないので社会に迷惑はかけてはいない。しかし、このボキャブラリーがないことで、思考力や理解力を大きく減じてしまっているし、表現力もなく、その結果、コミュニケーション力もない。まあ、これは昔もとりあえず「可愛い」、「やばい」、「むかつく」というある対象に向けられた条件反射的な感情の言葉だけで会話をしていたと指摘されていたりもしたので、今だけの問題ではないと言われるかもしれないが、今は、そもそもある対象に向けられる関心も失われているかもしれないなと思う時もある。何も、このボキャブラリーが大学の講義で学ぶようなものじゃなくても全然、構わないのだ。そして、それは言語でなくても構わない。ダンスでの表現力や、楽器、絵や写真といったものでもいい。百聞は一見にしかずではないが、うまく言語で表現できなくても構わない。ただ、当然であるが、楽器で表現するためのボキャブラリーを獲得することも大変だ。ギターであれば、ボキャブラリーはコードになるのかもしれないが、それを増やさないと豊かな表現をすることは覚束ない。スリー・コードだけでは勢いは感じられるが、細かいニュアンスはとても伝えられないであろう。もちろん、ボキャブラリーだけではなく、ペンタトニック、ドミナント・スケールといった文法も覚えなくてはならないが、それもボキャブラリーが獲得できてからこそであろう。
 私はここ数年、英語教育に関心を持つようになっているのだが、それは日本の英語教育だと、まったく英語ができるようにならないこと、にいらだたしさを覚えているからだ。そして、これはまだ仮説ではあり、一度、大学の講義で実験したこともあるのだが、英語を日本人が出来ないのは、圧倒的に語彙不足が原因なのではないかと考えている。語彙が少ないので、そもそも表現することができないのだ。そして、最近、うちのゼミ生をみていて、この語彙が少ないのは何も英語ではなくて、日本語もそうであるということに気づいたのだ。そして、語彙を増やそうともしていない。ラーメンが好きであるといっているのに、ラーメンを理解するための語彙を全然、増やそうとしない。
 これは、ここ10年間ぐらいでの学生をめぐる大きな変化かもしれない。昔であれば、例えば鉄道に関しては、鉄道オタクがいて、鉄道に関する圧倒的なボキャブラリーを有していた。そういう学生は、アルバイトも鉄道会社の駅員をしたりして、車輌やダイヤ、駅弁などに関しても豊富な情報(語彙)を持っていた。同様のことはカメラとか、ギターとか、AV女優とかでもいた。もちろん、現在でもそのような学生がいない訳ではない。例えば、前任校の卒業生でほとんどのプロ・ミュージシャンとして活躍している「宇宙団」の望月美保は、日本のロック・ミュージシャンに関しては相当、詳しく、私は随分と彼女から教わることが多かった。しかし、だからこそ彼女は第一線で活躍できているとも言える。ボキャブラリーを有しているからだ。
 人は「言語」で思考する。ボキャブラリーが多ければ多いほど、より豊かな思考を展開することができる。すなわち、ボキャブラリーと思考力とは高い相関関係がある。また、それによって表現力も増すので、コミュニケーションも円滑にすることが可能となる。そして、ここで「言語」と表記したが、それは何も言葉でなくてもいいのだ。「エリック・クラプトンのような泣きのギター」、「伏見桃山のひかりのようなつけ麺」、「ゴッホのひまわりの絵のような色彩」、「『アニー・ホール』のウディ・アレンのような失恋」、「奈良萬のような豊穣さ」、「ガウディのグエル公園のような色彩」・・・。このようなボキャブラリーを持つことで、世の中を広く理解し、それは世の中で生きていく自分をも知ることになる。そのことで、自分の人生も豊かになり、魅力的な人になっていけると思うのだ。
 このボキャブラリーが、なんか今の学生には本当に欠けていると思う。お金がないといって安居酒屋で飲み、ファストフード店で食事を済まし、恋愛もコンビニエント感覚でやり過ごし、就職に関しても、何がやりたいかとかではなく、大学のポジショニングだけでとりあえずどっかの企業に潜り込もうとする。他人の人生のことをとやかく言う資格はないが、このボキャブラリーの多寡によって、豊かな生を送れるかの社会格差が生じるような気がするのである。せっかくの人生、そしてボキャブラリーを増やす機会があるのに、それに力が入れられないのは由々しき事態であると思う。
 

 

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『スター誕生』 [映画批評]

グラミー賞でのレディ・ガガのパフォーマンスが素晴らしかったというので気になったので『スター誕生』を観た。てっきり、あまり美貌に恵まれないが才能に溢れた女性が、その才能に気づいたイケメンの売れっ子ミュージシャンの支援のもとにスターになるまでの軌跡を描くストーリーかと思っていたら、映画前半で簡単にスターになってしまって、残り後半は、売れっ子ミュージシャンがアル中でいろいろと人間関係を破綻させていく、というストーリーになってしまった。それはそれで、いろいろと考えさせられたが、もう少し、スターになるまで波瀾万丈のプロセスがあった方が楽しめたのにな、と思う。あと、もう一つ残念だったのは、曲が今一つであることだ。バーバラ・ストライザンドの『スター誕生』からは『Evergreen』という何世代にも歌い継がれるような凄まじいメロディが生まれたが、残念ながらレディ・ガガの『スター誕生』ではそのような曲はつくられなかった。とはいえ、現時点において『スター誕生』をリメイクするなら、キャスティングはレディ・ガガしかあり得ないと思わせる演技ではあったと思う。レディ・ガガの魅力は十二分に銀幕に表出されていた。それだけに、強烈な才能を再確認させてくれるような曲をつくってもらえたらとさぞかし素晴らしかったのにと思わせる。

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