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ジャイメ・レルネル氏の次女のイラーニャさんと故人を偲ぶ [都市デザイン]

ジャイメ・レルネルさんの事務所を訪れ、次女のイラーニャさんとお会いする。会うのは初めてである。中村ひとしさんの長女のサンドラさんに同行していただいた。ジャイメさんは2021年5月27日に亡くなられたのだが、亡くなられる半年ぐらい前から体調が優れなくなっていた。イラーニャさんに言わせると「病気のショッピング・センター」。コロナがきっかけで亡くなったというのは事実のようだが、コロナに罹患した後は一時期、回復したそうだ。ただ、腎臓にダメージが及んだようで、その悪化で亡くなられた。ただ、亡くなるまでは本当、眠ってばかりであり、亡くなる時も眠りながら永眠されたそうだ。敬愛している人の最期のお話を聞くのは悲しくて辛いが、一方で救われた気持ちにもなる。亡くなられて1年半が経ち、ようやく私もお送りすることができた気持ちになる。
 さて、せっかくの貴重な機会であったので、私が長年、疑問として抱いていた「なぜ、政治的なコネクションもないジャイメ・レルネル氏が34歳という若さで市長になれたのか」ということをイラーニャさんに尋ねてみた。その回答は次の通りである。
 ジャイメ・レルネル氏はパラナ大学の土木工学科を卒業するが、その後、同大学に建築学科ができる。そこで、建築学科に入り直すのだが、教員が不足していたため、学生をしながら教員をするようなことをしていた。そして、その頃、サンパウロの都市計画コンサルタントがクリチバ市のマスタープランを作成するので、それを手伝ってくれとジャイメ達にお願いする。そして、一緒にマスタープランを作成するのだが、内容が気にいらなかったジャイメ達は大幅に変えてしまう。そして、そのマスタープランの提案としてつくられたIPPUC(クリチバ都市計画研究所)の初代所長となる。
 そして、1971年にクリチバの市長にパラナ州知事によって任命されるのだが、その当時の市長は軍事政権下であり、あくまでもトップダウン。いつ首になってもいいような位置づけであった。イラーニャさんによれば、マスタープランの作成をし、IPPUCの所長であったジャイメを市長に任命するのは、市長の重みが軽い当時としては、それほど不思議ではないと言いつつ、このマスタープランを一緒に作成したレルネル氏より年輩のフォーティナイト氏は、この人事が随分と面白くなかったようだ。それから、ほぼ絶縁をして、レルネル氏と付き合うことはなかったと言う。このフォーティナイト氏は、自分が市長に任命されると確信していたそうで、レルネル氏が任命されたのは想定外であったそうである。なぜ、フォーティナイト氏ではなくて、レルネル氏なのか。それは、州知事との相性だったのではないか、というのがイラーニャさんの推察である。ちなみに州知事も任命制なので、こういう首長的ポストは現在とはまったく違う、ということのようである。
 他にも中村ひとしさんとの凸凹コンビの話、レルネルさんの日本での思い出話、ぼろい中古車しか買ってくれずに恥ずかしい思いをした話などをしてくれた。改めて、ジャイメ・レルネル氏と知り合ったことが自分の人生にとっていかに貴重で有り難いことであるかを確信するような一日であった。

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