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宮台慎治の『まぼろしの郊外』 [書評]

今更ながらだが、宮台慎治の『まぼろしの郊外』を読む。郊外論の研究をしようと誘われたのだが、今更、郊外ってどうよ、と思ったりしたので、積ん読状態であったこの本を読んだのである。さて、この文庫本は『まろしの郊外』というタイトルであるが、大きく二つの内容に分類でき、前半は「テレクラ少女論」がほとんどで、あまり郊外論的ではない。いや、この「テレクラ少女」の背景に郊外的な課題があるのはもちろんなのだが、どちらかというと郊外というよりかは、東京vs.地方都市(青森)といった構図で語られていた。そして、彼の論では地方都市は東京に比べて、売春女子高生という点では「郊外化」していない。ふうむ、都心と郊外を対比するというのは定義からして当然だが、彼の論的には東京がすでに郊外なのかもしれない。というか、全体的に郊外化しているということか。
 後半は「現代の諸像」ということでインターネットのマイナスの側面、恋文の意味の喪失、差別論、オウム信者の「良心」などが語られる。これらも郊外的な現象ではあるかもしれないが、必ずしも郊外という概念に収まらないし、郊外を形作る要素でもなく、現代社会を分析する一つの視座を提供する現像である。そして、最後に「酒鬼薔薇聖斗のニュータウン」というエッセイがあり、これは相当、読み応えのある密度の高い郊外論である。
 などと書いたら、私のこの浅薄さを予め察したかのように「あとがき」には次のように書いてあった。
「(前略)したがって『まぼろしの郊外』と題される理由は自明であろう。成熟した近代において、(1)幻想の共有度合いが低下するとともに(2)社会の不透明さが増大し(3)実存を脅かされた人々が非自明的な幻想に固執する、という動きを代表する空間こそが「郊外」であるからだ」。
 ううむ、つまり「郊外」を論じる本ではなく、社会の「郊外化」を論じる本であったということですか。すなわち「郊外」を何かが分かっていないと、よく見えてこない本でもある。とはいえ、流石、そのフィールドワーク、透徹な論理力はすさまじく、その思考には引き込まれる。
 

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