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岡崎市を生まれて初めて訪問する [都市デザイン]

岡崎市を生まれて初めて訪問する。いや、岡崎インターを降りてJR岡崎駅そばの有名な鰻屋に入ったことがあったりするので初めてというのは違うが、岡崎城がある岡崎市の中心地に訪れたのは生まれて初めてであった。
 岡崎は江戸時代には東海道53次の宿があり、家康生誕の地でもあり、東三河の中心地であった。名古屋なんかより、はるかに存在感がある都市であったと思われる。明治時代に入っても岡崎県が設置されていたぐらいであるから、それなりのプレゼンスがあった筈だ。それが、現在は一地方都市として、なんか存在感が薄い。人口は増加しているが、これは外国人増加で日本人減少を補っているだけであるし、経済力は優れているかもしれないが、これは豊田のベッドタウンとして位置づけられる地理的要因に起因している。ということで、本来的には地方中核都市的位置づけであった筈なのに、なんで、こんなことになってしまったのか。
 それに対しての私の答えは、鉄道を忌諱したからだ。東海道本線が敷かれた時、当然、鉄道側は岡崎の中心に鉄道を敷きたかった。しかし、これに対して岡崎市民は猛反対。その結果、岡崎駅とは名ばかりの、岡崎市の南端に駅がつくられた。中心市街地からは相当、距離がある。その後、名古屋鉄道が名古屋と豊橋を結ぶ路線を敷くときは、中心市街地の近くに駅を設置することに成功する。これは、当時の名古屋鉄道がちんちん電車のようなもので、国鉄のような迫力がなかったためであると岡崎市役所の人が説明してくれた。現在、岡崎市の中心駅といえば、この東岡崎駅になるそうだ。
 その後、新幹線が1964年に開通するが、岡崎市はこの新幹線にも反対する。もし、新幹線のルートが岡崎市の中心近くに走ったら、岡崎市に新幹線の駅がつくられたかどうかまでは不明だが、その都市の歴史、さらには都市規模、また名古屋と豊橋との距離、三島や熱海、米原、岐阜羽島などに駅がつくられたことを考えると、岡崎駅ができてもまったくおかしくなかったであろう。結局、新幹線は岡崎市をかするように通っているが、はるか市街地より南を通り、その後、隣の安城に新幹線駅はつくられるようになる。
 中心市街地に公共交通が整備されていなかった訳ではない。1960年代まではJR岡崎駅と東岡崎駅、そして家康の菩提寺である大樹寺とを結ぶ路面電車が走っていた。現在も、この路面電車が走っていた通りは「電車通り」と呼ばれているそうである。しかし、路面電車が廃止され、その後は、ひたすらモータリゼーションの道を進む。中部地方最大ともいわれるイオン・モールが20年前にJR岡崎駅と東岡崎駅の中間に開店すると、中心市街地の衰退も一気に進む。
 岡崎の人達がなぜ、ここまで鉄道を嫌ったのかは不思議である。もし、東海道線をもっと都心部にまで引き込み、さらには名鉄を都心部に走らせ、新幹線の駅もつくっていれば、今頃はもっと栄えていたのではないかと思われる。なんか、とてももったいないことをした都市のような印象を覚える。

タグ:岡崎市
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