SSブログ

プラウエン [ドイツ便り]

 久しぶりに朋友であるフランク・ローストと会って話をする。彼はもう1998年頃からの付き合いで、ドルトムント工科大学に私が客員教授でいけたのも彼のお陰である。私が彼と知り合ったのは、彼がベルリン工科大学で教えていた時で、私と彼がフロリダのフォートラウダーデールのシンポジウムにシャロン・ズーキン女史に呼ばれて話をしたのがきっかけであった。2000年頃だったかと思う。さて、フランクとは都市にまつわる会話で、いつも止まらないほど盛り上がるのだが、旧東ドイツの縮小都市話をしていたら、ところでプラウエンに行ったか?と聞いてきた。私はプラウエンというレースの刺繍で有名な町があることは知ってはいたが、大した関心をもっていなかった。すると、フランクはプラウエンは面白いぞ、と言う。彼の面白いぞ、には絶大なる信頼を持っている私は、早速、プラウエンに向かった。プラウエンは私が滞在しているエアフルトからだと2時間30分ぐらいかかる。ゲーラで乗り換え、さらにもう一回乗り換えてプラウエンに着いた。
 プラウエンのドイツ鉄道の中央駅はおそろしく貧相で、その縮小都市感は半端ない。15年ぐらい前はこのような駅は結構、多かったが、それから随分と投資が為されて綺麗になっているので、何か懐かしささえ覚える。ただ、ドイツの都市は中央駅の貧相さでそれを過小評価すると後で酷い目に遭う。典型的なのはデュッセルドルフであるが、ブランシュヴァイクなどがまさにそうだ。どうしてかというと、多くの都市において鉄道駅は町外れにつくられるからである。さて、ただ、この貧相な中央駅に路面電車が乗り付けている。そして、この路面電車に乗って都心に向かったら、とても人口10万前後の都市とは思えないほど賑わっていた。路面電車は途中から、トランジット・モールになり自動車は入れない空間になっている。金曜日の午後ということもあるかもしれないが、道には人が溢れている。これが縮小都市?と思うほど、日本の同規模の都市と違って賑わいを感じてしまう。これは、自動車が都心部に入っていないので、人が多く町中に出ているからだろう。
 プラウエンはフォグトランド県の中心都市として位置づけられている。それは、バーバリアとの州境、チェコの国境そばに位置しており、そういう意味ではドイツの端っこの都市である。産業革命後の20世紀後半から、プラウエンは繊維産業の中心となり、特にプラウエン・レースと呼ばれる刺繍製品で有名となった。そして、1910年には周辺地域でのブームタウンとなり、同年の人口は12万1000人、1912年には12万8000人まで増加した。プラウエンはまたババリア地域以外では、1930年代に初めてナチ党の会合を開催した都市でもある。これは、当時のこの都市の重要性を物語るともいえよう。
 さて、しかし第二次世界大戦中から既にプラウエンの人口は大幅に減少し始める。1930年には11万4211人の人口が1950年は8万4485年、1990年は7万1774人と旧東ドイツでもずるずると人口は減少していく。東西ドイツが再統一した後、他の都市と違ってそれを契機に急激に人口が減少するようなことはなかったが、ひたすらずるずると人口を減少させている。そういう意味では、非常に興味深い動きを示している。

図1のコピー.png
(プラウエンの人口推移)

 プラウエンのもう一つの特徴としては、何しろ公共交通が不便ということが挙げられると思う。プラウエン中央駅はゲラからでも一度、乗り換えないと来ることはできない。ドレスデンからも直通列車は走っているがICEどころか通常の特急列車も走っていない。ただの快速列車である。以前は、ドレスデン-ケムニッツ-ツヴィカウ-プラウエン- ホフ- ニュンベルクといったルートで特急列車が走っていたかと思われる。さらにライプツィヒとは直通電車も走っていない。そして、そもそも中央駅が町の端っこにあるため不便である。
 ケムニッツ、ツヴィカウ、プラウエンといった南ザクセン地区は、ドイツにおいてもルール工業地帯に次ぐ大工業地帯であった。第二次世界大戦後においても、旧東ドイツの重要な工業地帯として位置づけられたが、東西ドイツが再統一された後からはその競争力のなさから、次々と工場は閉鎖。その結果、急激な人口減少を体験している。ただし、プラウエンに対しては、旧東ドイツでもこの地区に存在しながら、その工業の重要性は低かったので、既に旧東ドイツ時代から人口が減少していたのは前述した通りである。
 そして2008年には、プラウエンは都市地区の指定も外され、今では単にフォグラント県の管轄下に入ってしまっている。
 滞在時間は短いので、効率的に見なくてはならないということで、トラムの一日券を購入して、当てもなくトラムに乗る。トラムに乗ればプラッテンバウ団地が見られるかなと期待したのであるが、トラムの終点はどちらかというと牧歌的な郊外住宅地であった。しかも結構な高級住宅地であり、これは往年のプラウエンの繁栄の名残ではないかと思われる。どうもプラウエンのプラッテンバウ団地は郊外ではなくて、都心部と駅周辺部にあるようだ。そして、その供給数は多くないと推察される。プラッテンバウ団地は、ホイヤスヴェルダやアイゼンヒュッテンシュタット、ズールのように計画的に工業都市、行政都市として位置づけ、急激な人口増加に伴い急激に現れた住宅需要に対応することが目的でつくられた訳であるから、プラウエンのように旧東ドイツ時代から人口減少都市においては、それほど供給する必要がなかったのかもしれない。ここらへんは、しっかりと調べて書いている訳ではないので、相当いい加減であることを断っておく。
 さて、60年以上の人口減少、さらには最近での都市格の降格など、踏んだり蹴ったりのプラウエンであるが、金曜日の午後ということもあるかもしれないが、都心部のトランジット・モールには多くの人で溢れていた。どこから湧いたのか、というぐらいの多さで、これはぱっと見、とても縮小都市であるようには見えない。ドイツは空き家を、空き家らしく見せない、空き店舗でもウィンドウ・ショッピングができるようにするなど、いろいろと縮小のダメージを緩和させる対策を採用しているが、都心部に歩行者専用空間を設けて、賑わいを演出するというのも、縮小対策としては極めて優れているのではないだろうか。単に、都市をコンパクトにすれば人が集積するのではない。人がたむろし、自動車を気にせず、歩ける空間をしっかりと整備してこそ、縮小都市においても初めて活気が生まれるのではないか。ということをプラウエンというベテランの縮小都市において思ったりした。
 4時間にも満たないプラウエンへのフィールド・サーベイであったが、帰りは中央駅からではなくプラウエン・ミッテという駅からフォクトランドバーンという鉄道で帰る。これだと、ゲラ駅まで直行で帰れる筈だと思ったのだが、途中の駅で降ろされ、バスで駅まで行かされた。これは、おそらく線路工事をする必要が生じたためで臨時の措置であると思われるが、思ったより遙かに帰るのに時間がかかってしまった。

IMG_2385.jpg
(中央駅の無粋な建物)

IMG_2388.jpg
(中央駅前のプラッテンバウ団地とそこを走るトラム)

IMG_2398.jpg
(郊外の住宅地)

IMG_2453.jpg
(丘に建つ住宅)

IMG_2457.jpg
(丘からは中心市街地が展望できる)

IMG_2486.jpg
(縮小都市とは思えないほど多くの人が中心市街地のトランジット・モールを歩いている)

IMG_2490.jpg
(トラムが走るトランジット・モール)
nice!(3) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 3