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生まれて初めてベネチアに来る [都市デザイン]

ベネチアに生まれて初めて訪れる。昨年末、ベネチアの大家の陣内先生に取材をさせていただいた時、「ベネチアは行ったことあるでしょう?」と言われて、「ない」と正直に言うのはあまりにも失礼なので「ある」と嘘をついてしまった。その後、同じ仕事で林泰義先生にも同じ質問をされたのだが、そこでも今さら本当のことも言えないと再び嘘をついてしまった。嘘が嘘を呼ぶのの典型だ。そもそも都市デザインとかを研究していて、ベネチアに行ったことがないなんて、もぐりそのものである。ということで、もう嘘をつかなくてもいい、類似の質問がされる前に既定事実をつくってしまえるように特に理由がないけど訪れたのである。

さて、そのような理由で来たベネチアだが、一方で自分がどのように、この都市を感じるのかは興味を持っていた。世界中の人が絶賛している都市、ベネチア。その豊穣なる歴史、その美しいランドスケープと都市というアーバンスケープが見事に調和したといわれる景観美。多くの都市デザイナーが理想の都市デザインと捉える(特に私が留学をしていたカリフォルニア大学バークレイ校の都市デザインの先生達はそうであった)このベネチアのアーバンスケープはいかほどのものなのか。

パリからマルコポーロ空港に到着する。マルコポーロ空港は本土側にあるので、ここからベネチアまで移動しなくてはならない。どうすればいいか、まったく不明だ。鉄道はどうも通っていないようなので、バスか船、ということのようだ。ローマ広場からホテルの場所をチェックすると結構、ある。バスだけではいけない。そこらへんを含めて窓口で相談すると、バスでローマ広場まで行って、そこからホテルまでは船で行けという。そういうことで14ユーロほど取られる。バスは普通の地元のバスで、町の住民が乗り降りで使っている。というか、観光客は私ともう一人ぐらいである。なんか違う気もするが、まあ、それはそれで新鮮だ。結構、遠回りをしてローマ広場に着く。ローマ広場までは随分と長い橋を渡るのだが、この橋が、まるで異次元の世界にいざなうような効果を演出していてなかなかだ。さて、ローマ広場に着いて、ボート広場に向かう時に目の前にグランド・カナルが広がる。真夏の盛りということもあり、アドリア海のトルコブルーが少しかかっているような青色と煉瓦色というかシエナ色と白とが混在したようなベネチアの街並みとのコントラストが何ともいえずに美しい。確かに、これは人々がつくりだした都市景観としても別格の素晴らしさを有していることが分かる。

ホテルにはローマ広場から船で行く。100人ぐらいが乗れそうなボートである。15分間隔ぐらいで運行されている。このボートは、歩くよりはちょっと速いぐらいのスピードでグランド・カナルを進んでいく。ベネチアは、自動車は一切、入ることができない。自動車どころか自転車も駄目である。タイヤがついたもので許されるのは、身障者の車いす、そして乳母車ぐらいである。したがって、公共交通はこのボートやタクシー代わりのゴンドラとモーターボートといったものである。必然的に、もう流れる時間が、歩行の時間になる。街中を走っている人も見かけない。ここは、時間が緩やかに流れる空間である。

ボートは20分ぐらいで、私のホテルのそばの乗り場に着く。トランクをもっているので、石畳を歩くのは嫌だな、と思っていたのだが意外を道は歩きやすかった。ホテルは、なかなか値段の割にはよく、当然、窓からは隣の建物しか見られなかったが(運河沿いは値段が高い)、それでも悪くはない。

荷物を整理した後、早速、昼食を取ることも兼ねて出かける。まず、絶対見たかったのがリアルト橋。くねくねした道を歩くとすぐ方向感覚が失われるが、角に「サンマルコ広場」、「リアルト橋」などと書かれているので、それに沿って歩いて行くと「リアルト橋」に出た。リアルト橋は半分、工事中であったこともあったが、私的にはそんなに素場らしい橋とは思えなかった。エアフルトの橋(名前が出てこない)や、フィレンツェのポンテ・ベッキョ橋などに比べると、今ひとつである。これは、やはりグランド・カナルに架かる橋ということで評価されているのではないか、と勝手に思ったりする。

さて、しかし、そういってもこのリアルト橋を眺めながら食事をしたいと思い、運河沿いに椅子を置いてあるレストランテに入る。あまりにも暑いのでビールを注文し、オクトパス・サラダを食べる。オクトパス・サラダはやはり日本の蛸に比べると今ひとつではあったが、それでも結構、いける。とはいえ値段は観光客料金である。まあ、運河の景観代ということでここはしょうがない。

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(工事中のリアルト橋)

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(蛸サラダ)

一度、ホテルに戻り、サンマルコ広場へと向かう。サンマルコ広場は相当のものである。この都市が、その昔、いかに豊かさを堆積させてきたかがよく分かる。ベネチアの凄み、というのは、この長年に及ぶ富と財の蓄積によってつくりあげられたことが、この広場に立つと理解させられる。それは、例えばアイルランドなどでは、まったくみることのできない光景である。凄いなベネチア。

ということで、ベネチアの都市景観としての美しさ、その歴史的な豊穣さの堆積がもたらす豪華絢爛さはよく理解することができた。さすが世界中から人々を惹きつけるだけのことはある。とはいえ、私はベネチアに度肝を抜かされつつも、どうも腑に落ちない違和感を覚えていた。それは、ベネチアは果たして都市なのか?という疑問が生じさせた違和感である。

8月に訪れたということもあって、ベネチアは多くの観光客に溢れていた。この観光客がベネチアに求めているものは何であろうか。それは、都市的な営みとは無関係なものであろう。観光客は消費の場としてのベネチアを求めているだけであって、それはディズニーランドやユニバーサル・スタジオ、ショッピング・モールなどに求めているものとほとんど同一だと思われるのである。ベネチアは圧倒的に歴史的な豊かさなどはオーセンティックである。しかし、これらの建物が15世紀につくられたものであるとか、ベネチアの栄華に思いを馳せている観光客が100人中何人いるであろうか。多くの観光客は、ディズニーシーのベネチアをテーマにしたゾーンや、ラスベガスのベネチアをコンセプトにしてつくられたホテルに期待するのと同じようなシンボルとしての消費を求めてベネチアに来ているだけかもしれない。逆説的にいえば、ディズニーシーと同じであることを本家ベネチアに来て、確認して喜ぶ、といった日本人観光客なども多いと思うのである。

そのような観光客にとって、ベネチアが都市である必然性はまったくない。さて、しかし観光地としてのベネチアとしての集客力は圧倒的である。世界中から観光客を集めることができる、凄い集客装置である。ここまで観光地として突出して優れていると、他の産業に手を出すような余力は生じてこないであろう。観光業に依存する住民が増えることは必然であると思われる。ここで問題としたいのは観光業としての特質である。観光業というのは、なかなか新たなる付加価値を生み出すことが難しい。特に、ベネチアのように何もしなくても上手くいくような観光地においては尚更である。つまり、都市が持つ極めて重要な要素である、新しい価値を創造するというインキュベーターとしての機能がベネチアには見出せないのである。いや、これはたかだか1日しか時間を費やしていない印象論であるので、私は多いに外している可能性もある。ムラノのガラス工芸などは今でも市場競争力を有しているのかもしれない。リドで行われるらしいベネチア・ビアンテーレも新しい価値などを創造しているかもしれない。

そのような機能は有しているのかもしれないが、ここまで観光地としてのポジショニングが定着してしまうと、現状維持をさせていくことが最優先され、何か新しいものを創造するという機運がなくなるような気がするのである。もちろん、現状維持で問題がなければ、そのままにしておけばいいだけの話だろうが、それが都市なのであろうか、という根源的な疑問を持ってしまう自分がいるのである。というのも都市は自立的であるべきだと思うが、これだけ観光に依存していると、観光客に合わせる、マーケティング的に都市の経営をしていく、という考え方が、そこに住む市民の望ましい都市像より優先されてしまうと思われるからだ。ベネチアにあるハードロック・カフェやディズニー・ストアは他の都市に比べてもはるかに都市景観にマッチしているのである。本来的には歴史都市においては、異質さを周囲に放つようなこれらシンボル・ビジネスを展開しているナショナル・チェーン・ストアがしっくりと街並みに溶け込んでしまっていることが、ベネチア自体が都市というよりかはテーマパーク的になってしまっているのではないか、という風に私に思わせてしまうのである。

そういう意味ではベネチア大学などの存在は大きいとは思う。観光以外の教育などといった要素をどれだけ保有できているかが、この都市が将来も活力を失わないためには必要だと思うのである。

まあ、他の都市からすれば羨ましいほどの観光地なのかもしれないが、観光地ではなく都市という視点でみた場合に、私は何か違和感を覚えてしまうのである。これが私のベネチアの第一印象である。再訪したら、また違うことを思うかもしれません。

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(サンマルコ広場)

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(グランド・カナル)

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(ヒューマン・スケールの街並み)
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