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紅白歌合戦での椎名林檎と中森明菜 [ロック音楽]

 紅白歌合戦には興味はそれほどない。家族は観ていたのだが、私は大掃除をしていた。しかし、椎名林檎と中森明菜の時だけ、家族は気を利かせて呼んでくれた。半世紀に及ぶ人生で、私がファンクラブに入ったのは椎名林檎と中森明菜だけである。
 椎名林檎と紅白歌合戦というと、ちょっと違和感がないではないが、流石の貫禄であった。歌といい、パフォーマンスといい圧倒的な存在感だ。舞台衣装もいい。個人的には浮雲がギターを弾いていないで、後ろでマイク・スタンドを持って踊っていたのが愉快であった。しかし、浮雲の代わりにギターを演奏している二人は、浮雲よりも上手なのであろうか。そうであれば、世の中は広いものである。
 さあ、絶対的な安心感のもと観ていた椎名林檎と違い、中森明菜は観ているこちらがはらはらするほど緊張しているのがブラウン管を通じて分かった。というか、目が異常である。薬でもやっているのではないか、と案じるほどの異常さだ。しかし、歌は相変わらず上手い。昔のような声量がないので、歌の上手さと声質のよさでカバーするしかないのだろうが、超速球が投げられなくなった本格派がコントロールで交わすようなベテラン的な上手さが感じられる。とはいえ、ちょっと無理に笑顔をつくろうとした時の、そのどうにか自分をコントロールしようとする意志が大変痛々しく、観ていて辛かった。ただ、辛かったけど、よくぞ人前ではなくても、テレビカメラの前でパフォーマンスができるまで復帰できたな、という嬉しさもある。
 椎名林檎と中森明菜という二人の天才であるが、椎名林檎が才能とうまく付き合うだけの術を獲得しているのとは対照的に、中森明菜はその才能に自分が振り回されて自滅してしまった。才能とうまく付き合うということは、その才能をプロデュースする人たちとしっかりと協働できるということだ。これは、一方で椎名林檎の最高のプロデューサーは椎名林檎本人であるということも関係しているかもしれない。中森明菜はボーカリストとしては傑出したものがあるが、プロデュース面では他人に頼らなくてはならない。これは大きな違いであろう。
 ということで個人的には、この二人しか紅白歌合戦は観ていないのだが、どうも家族の話によると、昔の曲ばかり演奏していたとのことだ。また、出演者によっては二曲も歌ったりしていたそうである。紅白歌合戦は、個人的にはどうでもいいことではあるが、なぜ、大晦日にするかというと、その年に流行した歌をこの日にまとめて聴いて、その一年を振り返るということに大きな意義があったかと思う。椎名林檎のNIPPONとかは、この年の紅白歌合戦で演奏されてこそ意味があるのだ。また、それほど歌謡曲とかに関心がない人が、その年にこんな歌が流行ったということを知ることで、売れ行きが下降線を辿っているCDとかの販売促進にもなるかもしれない。この「旬」を大切にするという精神を失ったことで、もはや紅白歌合戦は自ら、紅白歌合戦のアイデンティティというか存在意義をも喪失したのではないか。視聴率という本質的ではない(そもそも広告を取らないNHKが視聴率を気にする時点で、NHKの存在意義さえも失っている)目的に踊らされた結果、自らを崩壊の道へ突き進めさせている。というか、こんなことをやっていて受信料を取ろうという意識が私には極めて不遜で傲慢であると思われる。
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