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ボストンのコンサートを観るために武道館に行き、違和感を覚える [都市デザイン]

ボストンのコンサートを観るために武道館に行った。35年ぶりの来日公演である。35年前の武道館公演の時、私は高校一年生であった。行き損ねた。当時は、結構、悔しかった。なので、まあそんなにボストン・ファンではないのだがリベンジのように行ったのである。

さて、ボストンは面白いバンドだ。まず、とても寡作である。一枚目が1976年、二枚目が1978年とデビュー当時はそこそこのペースだったが、三枚目は1986年。ここらへんで私はボストンへの関心を失う。まあ、社会人になっていたしな。四枚目は1994年、五枚目は2002年、そして六枚目は2013年である。ということで、ほとんど最初の2枚とアマンダぐらいしか知らない私であったが、コンサート当日も、知っている曲以外で、おお!これは名曲だというような曲はほとんどなかった。

ボストンはトム・シュルツという天才というか秀才のワンマンバンドである。楽曲は少なくとも2枚目とアマンダはなかなか、相当いい。ただ、アメリカン・プログレ・バンドの範疇に入れられるが、カンサスのような情緒性はなく、スティックスのようなドラマ性もなく、むしろストレートのロックンロール曲に音をかぶせまくっているという印象だ。基本はロックンロール・バンドだと思う。

「ドント・ルック・バック」、「モア・ゼン・ア・フィーリング」(それにしても、「感情を越えて」というようなタイトルに「宇宙の彼方」とかいう邦訳をつけますかね)、「アマンダ」というロック・クラッシクスやFeelin Satisfied、Peace of Mind, Long Timeなどはなかなか乗ることができて楽しんだりもしていたのだが、このコンサートを観ていて猛烈な違和感をも覚えた。それは、このボストンという音楽から、こう何かロック的なもの、というかロック魂的なものがまったくといっていいほど感じられなかったからである。ロックンロールを演奏する純粋な楽しさみたいなものは、こちらも共有できる。しかし、何かが根源的に欠落しているような違和感を覚えたのである。

まず、ベースが女性であることや、ゲスト・ボーカルに女性のボーカリストが出てきたりしたことに私は興醒めした。いや、ロック・バンドに女性がいることが嫌な訳ではない。私は、フリーとウッド・マックは好きだし、スマッシング・パンプキンにダーシーは不可欠だと思う。

しかし、ボストンのような王道、産業ハード・ロックに女性メンバーがいるのは、とても興醒めするのである。それは、ツェッペリンやディープ・パープル、メタリカに女性メンバーがいたら白けるのと同じ感覚だと思う。

いや、トム・シュルツはジミー・ペイジではないし、リッチー・ブラックモアでもない。しかし、やはり、こういう男臭いロックンロール・バンドは男だけで演じてもらいたいのである。歌舞伎とかにも通じるかもしれない。女形はいてもいいが、それは男であって欲しいのだ。自分でもそういう風に思っているのが不思議だが、ボストンというハード・ロックというジャンルの音楽は、そういう拘りが必要だと思うのだ。

総じて、ボストンはとても優等生ロックという印象を改めて受ける。そもそもレジュメ的にはマサチューセッツ工科大学卒業なので、トムはめちゃくちゃ優等生なエンジニアな訳だが、ロックンロールという形式が持つ不良性の魅力、なんかシシトウ食べると、凄い辛いかもしれないと思わせるような危険性、リスクがボストンにはまったく感じられないのが、51歳にもなっているにも関わらず、私には不満だったのである。「ドント・ルック・バック」のリフは格好いいと素直に思う。美しいメロディーは、ドビュッシーの音楽を聴いた時のような感動を覚えさせてくれる。しかし、なんか、こう山葵抜きの寿司を食べているような、甘ったるいカレーを食べているような、そういう不満を終始、覚えたのである。

それと同時に、こんなバンドを聞いていたら魂が腐っちまうとさえ思ったりもしたのである。まあ、51歳にもなって何を今更という感じでもあるが、それが率直な感想である。口直しにZZ Topでも聴かないと。

まあ、相当、悪くいったが、それでもトム・シュルツのギター・ワークはなかなかである。レスポールを買いたくなったくらいだ。あの音づくりは、テクがないギタリストにとってはいいお手本になるであろう。つまり、私のお手本としては相当、いいギタリストである。でもね、人間としては立派だし、素晴らしい才能だとも思うが、ロックンローラーとしては格好悪い。と思ったボストンの35年ぶりの武道館コンサートであった。まあ、67歳であることを考えると、そこらへんの私の批判もすべて帳消しになるぐらい、凄いことかもしれないけどね。

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