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都市デザインの大家、ヤン・ゲールに取材する [都市デザイン]

 都市デザインの大家にいつの間にかなっていたヤン・ゲール氏に取材をする。ヤン・ゲール氏と会うのは3回目である。最初の出会いは衝撃的であった。1997年のセント・ルイスで開催された学会で、彼はキーノート・スピーカーとして招聘されていた。まだ、今のような世界的スーパースターとして広く認識されていない頃である。とはいえ、私は彼の「Life Between Buildings」を読んでいたので彼のことは知っていた。私は、オープニング・セレモニーで日本のゼネコンの人と話をしていた。そこで、いきなり彼が我々の会話に割って入ってきたのである。私は随分と失礼な人だな、とは思ったが、あなたは誰ですか?と尋ねると「ヤン・ゲールだ」と回答したのである。その時はぶっとんだなあ。私は偉く驚いて、「あなたの本にはとても感銘を受けました」と握手を求めたのを覚えている。面白いのは、私と話をしていたゼネコンのかたが、「知らないなあ」と無礼な態度を取ったことである。私は、「あんた、環境デザイン研究学会に参加していてヤン・ゲールを知らないの」と、この人のリアクションにも驚き、ダブルで衝撃を受けたことを覚えている。まあ、そういう初対面の経験をしたこともあり、私の中では、もう「スーパースター」としての位置を欲しいままにしている現在でも、ヤン・ゲールはきさくなおっさんのイメージのままなのである。
 2010年に会った時は取材で、彼の事務所で話をした。その概要は下記の動画で見ることができる。
http://www.hilife.or.jp/wordpress/?p=3689
 ということで、今では国土交通省が国民の税金を使ってでも招聘するぐらい、日本でもスーパースター的な位置づけを確保しているヤン・ゲールであるが、私は比較的気軽に、取材させて欲しいとお願いをしてしまうのである。そして、期待通り、ヤン・ゲールはいいよ、と要望を受け入れてくれるのである。ヤン・ゲール、相変わらずの気さくさで、私は嬉しくなる。
 さて、ヤン・ゲールとの取材。今回は、「都市の魅力を構成する要素は何ですか」という単純だが、奥深い質問をさせてもらうことが目的である。その取材の結果は、近いうちに2回目の取材と同様に「ハイライフ研究所」のウェブサイトで公表させてもらうので、詳しいことは現時点では述べさせてもらうのは遠慮するが、都市、そしてそれを利用する人間のことを、十分に知り尽くしている人の、深い造詣を感じ取れるような話の内容であった。私は、ヤン・ゲールの本などをよく読んでいるので、おそらく新しい発見というか、驚くような話は聞かないだろうと思っていたのだが、それは間違いであった。私は、ヤン・ゲール氏からまだまだ学ぶことがたくさんある未熟な存在であることを思い知らされた。ちょっと嬉しい気分もする。
 ヤン・ゲールは、1960年に大学を卒業して、建築家となる。この頃のヤン・ゲールは他の建築家と同様にスタイルだけを考えていた。そのヤン・ゲールに大きな方針転換をもたらしたのは、妻となるイングリッドとの出会いである。イングリッドは、心理学者であった。彼女はヤン・ゲールに「どうして、建築家は人のことを考えないの」と尋ねるのである。ゲールはこの質問に興味を持つ。そして、1965年に「人と空間との関係性」に関する研究費を獲得して、夫婦でイタリアに半年間の調査をしに行くのである。そこで、調査手法をある程度確立したゲールは、1968年には本拠地であるコペンハーゲンを対象として、人と公共空間の関係性を調べ始める。その成果は1971年に「Life Between Buildings」としてデンマーク語で発表される(英語版が発表されるのはずっと後の1987年)。これをきっかけとして、コペンハーゲン市は人を最優先に捉える都市政策をその後、展開していくことになるのだ。
 さて、私には大きな謎が一つあった。それはヤン・ゲールは今でこそ本当に有名になって、アメリカでもスーパースターとしてマスコミで紹介されたり、それこそ前述の環境研究デザイン学会(Environmental Design Research Association)では、ヤン・ゲールがテーマとなる分科会がつくられるぐらいなのだが、前述したように1997年はキーノート・スピーカーとして招聘されてはいたが、パーティーで話し相手がおらず、日本人の我々に話しかけるような存在であったことである。すなわち、1997年から現在の15年間ぐらいの間に、何か大きな出来事、イベントがあった筈である。それは、ブロードウェイをホコ天にするプロジェクトをコンサルタントしたことがきっかけかもしれないが、その前に、彼にそのようなコンサルタントをお願いする何かがあったとも思われるのである。彼は1997年以降に発見されているのである。
 その謎が今回のヤン・ゲールとの取材からほぼ分かった。というのは、ヤン・ゲールが現在のように世界的に有名になり、世界中から請われるようになるのは、2000年に建築事務所を開いたからなのである。それまでは、ヤン・ゲールは一研究者にしか過ぎなかった。勿論、研究者の中では有名ではあったが、プラクティショナーにはそれほど注目されていなかったのである。もちろんメルボルン市からはコンサルタントの仕事を依頼されたりしていたが、あくまでも研究第一という位置づけであったのである。しかし、彼の学生であったヘレンが、研究成果をもっと実践に活用した方がいいと主張したことで、ヤン・ゲールは事務所を開くことになる。そして、それが大当たりするのである。現在のゲールはニューヨーク、シアトル、上海、モスクワとその活動の場はヨーロッパを越えて、世界中に広がっている。
 ヤン・ゲールが世界の都市に受け入れられているという事実はとても心強い。そして、実際、ヤン・ゲールの助言を受けた都市は見違えるように良くなっている。地元のコペンハーゲンはもちろんだが、ニューヨーク、シアトル、サンフランシスコ(他は見ていないのであまり言えない)などである。 
 ヤン・ゲールは90年代半ばに名古屋がデザイン都市を標榜していたとき、名古屋市から招待される。地下街が駄目だ、とかいろいろと鋭いアドバイスをしたのだが、ことごとく無視されたと4年前に取材したときは不満そうであった。今回は東京に招聘されているが、東京の人達、国土交通省の人達が少しは、人間中心の都市づくりという彼のコンセプトに影響を受けてもらうことを願わずにはおられない。

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