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金毘羅山を訪れ、そのオーセンティシティの欠如に愕然とする [地域興し]

江戸時代に人々は一生に一度でいいから金毘羅山にお参りしたいと考えていたそうだ。金毘羅参りと伊勢参りは、人生のクライマックスとして捉えられていたようだ。さて、そんなに素晴らしいものであるならば、ちょっと高松まで来ているので寄るべきであろう、ということで金毘羅山を訪れた。琴電で一時間もしないで瓦町から琴電琴平に行くことができた。

琴電琴平駅から参道の入り口までは200メートルぐらい歩く。駅の前を流れる川沿いに歩くと、衝撃的なものが目に入った。ソープランドである。それも、見るからに場末感がする。果たして、どういう客がここに入るのか、分からないが、聖なる空間である金毘羅神社へのリスペクトを地元の人々がまったく抱いていないことだけは分かった。もちろん、聖なる空間と俗なる空間というのは表裏一体であるので、それが近くにあるのはむしろ自然ともいえるかもしれないが、それにしてももう少し隠すというか、風情を出すことができないのか。天王寺の飛田のようなデザインの統一でもよい。

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(琴平駅から参道に行く途中で出現するソープランド街)

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(これらの存在が琴平という観光地に与えるダメージは相当、大きいのではないかと思われるがどうだろうか)

さて、参道の入り口には、もう50年以上前につくられたかのような喫茶店、シャッターが下ろされて何年経ったかと思わせるようなレストランなどがあり、いろいろと商売も厳しいのかなと思わせられる。それでいて一方では、「中野うどん教室」がこの表参道に数軒、店舗を持っており、多くの観光客で賑わっていたりする。

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(随分と衰退した感じのする商店街)

金毘羅山は階段が有名だ。階段は結構、高さが統一されていなくて、さらに段差が結構あるので、上るのは大変だ。また、この階段のある階段の両脇にお土産屋が並ぶ。ここで驚いたのは、これらお土産屋の半分くらいは、もう本当に下らないものを売っているという事実である。こどものための銃のおもちゃとか巨大な招き猫とか、まったくもって金毘羅山と関係ないものが売っている。そもそも、これから階段を上る人は、そうでなくても荷物を減らしたいから買うことはないだろうし、下りであっても、重い荷物を持って階段を下りると膝を痛めるので持ちたくないだろうから、本当、どういう動機づけがあって、これらのお土産を買うのか、私は想像もできない。金毘羅山に上って、もう人生やり残したことがなくなった気分になって参拝者が散財する気持ちを持つことを期待でもしているのだろうか。しかし、今時ソープランド、おもちゃのピストルや巨大な観光旅館などを見て、喜ぶような人がいるのだろうか。というよりか、興醒めしないような人がどの程度いるのだろうか。

それだけでなく、もう全般的に有り難みを感じるような演出がされていない。なんというか、畏敬を感じさせないのだ。宗教的建築、宗教的空間が持つ人々を畏怖させるようなそういう演出的な工夫が極めて希薄である。それは、空間的な演出の欠如、というかルーズさがもたらすマイナスの効果であろう。

例えば伊勢神宮に行くと、まったくもって無宗教の私でさえ感じ入るものがある。五十鈴川の流れをみると、身が引き締まる。これは外国人もそうではないかと思うのだ。そして、内宮、外宮はまさにそこが聖なるランドスケープであることが理解できるような空間演出が為されている。同じことは東照宮や明治時代以降につくられた明治神宮、さらに高尾山でもそうである。こういう配慮は、古今東西、宗教的空間が観光地として競争力を持つためには不可欠な要素であり、ポタラ宮やケルン大聖堂、アーヘン大聖堂などの集客力が高い宗教施設が必ず満たしている要素である。それは、そこが現実空間とは異なる空間へと移行したかのような幻想を抱かせるような工夫である。

それを考えると、この金毘羅山。期待しないで時間があったから訪れただけなので別にそれほど失望もしないが、これが何か期待をしてわざわざ来たとしたらがっかりしたと思う。大変、失礼なことを言えば、神道とかいっても、所詮、生きていた人が死んで神様として奉られるような宗教で、その神様になった人は当時の権力を握っていた人達で、神様が当時の政治的力関係によって恣意的に決まるような宗教なんだよねえ、ということに考えをよぎらすようなだらしない空気をここはまとっているのである。いや、まあ、そうなんだけど、それを敢えて隠すというか口外しないぐらいの気配りがあってもいいと思うのだけれども、ここはそういう配慮も感じさせてくれない。これで、有り難がれといっても無理だよなあ、と思う。

すなわち、ソープランドにしろ、おもちゃの銃のピストルや巨大な招き猫を売っているお土産屋は、この金毘羅山という伝統があり、ストーリーもある観光施設の魅力に少しでも寄与しようというような自覚はまったく皆無で、むしろ、少しでも楽に金を儲けようという意識だけで商売をしているように邪推されるのである。そして、残念ながら儲けることに関しても知恵を巡らしたりするのではなく、あまり考えもせずにソープは儲かるだろう、下らないガキのおもちゃであれば利益率が高いだろう、といった発想でのみ商売をしているのではないかとさえ思う。そこには、伊勢神宮の参道としておかげ横町をつくろうとした情熱や、鎌倉での景観形成の官民の努力、鞆の浦における伝統建築を保全するための熱意などとはまったく無縁の世界があるように思える。あくまでも寄生虫のような印象を受ける。そして、その寄生している親主も別にそれほどしっかりしていない。脛がそれほど太くない印象を受ける。その結果、宗教的な空間が有するべき聖なるランドスケープではなく、世俗的な消費のランドスケープが展開してしまっているのである。そして、それはここに来る人が期待しているランドスケープとはまったく違ったものなのではないかと思ったりするのである。それとも、それは私の誤解にしか過ぎないのか。

なんでこんなことが起きるのか、というと、やはりこの香川というところが大変、豊かで別に頑張らなくても飢え死にするようなことがないという地理的条件に負うのではないか。そういう場所であるから、まあ、宗教もなんちゃって宗教でも許されるのかもしれない。お金を落とすのは地元の人達じゃないし。確かにルールや規制というのは鬱陶しいものかもしれない。しかし、まちづくりや空間づくりにおいては、このルールや規制をもってして、ある程度、将来の方向性を形作ることが必要であろう。そういうルールを軽視して、また人々の意識が低い場合は、素晴らしい観光ポテンシャルを有しても人々を真に魅了するものができないな、というのが金毘羅山を訪れて、非常によく理解できた。理解は出来たがちょっと残念な気持ちにもなる。

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(なんでこんなおもちゃが売られているのだろうか)

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(景観的な配慮がまったくない看板群)

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(こういう参詣客をバカにしたようなおみくじを今でもやっている)

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(このコピーも、なんか地元のマーケティング・コンサルタントを雇ったような陳腐さである)

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(宗教には常にエンタテイメント的要素がつきまとったが、ここまでいくと有り難みがかえって減衰する)
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