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東京の五輪開催が決定したが、都市戦略的にはほとんど意味がないというかマイナスであろう [都市デザイン]

東京五輪が決定した。これを多くの人は喜びのニュースとして捉えているようであるが、私は東京という都市にとっても、それとポスト・フクシマで生きていかなくてはならない日本という国にとっても、多くの禍根を将来に残すのではないかと、極めて残念に捉えている。怒りはほとんど覚えないが、悲しい気持ちでいっぱいだ。

まず、東京という都市に関してのマイナス面。北京にしろ、ロンドンにしろ、一つ飛ばして、その前のシドニーにしろ、さらにはバルセロナ、ソウル、そして1964年の東京にしろ、オリンピックは都市戦略的には、都市開発をするための手段として位置づけられてきた。そして、そのように位置づけられてこそ、オリンピックという多額の投資をどうにか、都市経営的に正当化することができたのである。逆にいえば、そのような戦略抜きでは、このイベントはやるだけの価値が見合わない。それは、気分とかの話ではなく、経営的に見合わないのである。私は先月、ロンドンを訪れ、ロンドンのオリンピック競技跡地を視察し、その恐ろしいほど戦略的な都市開発のシナリオを知り、ロンドンというかイギリスのすごさを痛感した。つまり、オリンピックというのはあくまでも目的ではなく、手段として位置づけられるべきものであり、それが主客転倒された場合、アテネのような都市レベルではなく国家的レベルでのダメージを被ることになる。

個人的な話であるが、私は、前回の立候補時では東京都のオリンピックのアセス関連の委員を務めさせてもらった。その時は、まだいろいろと問題のあるウォーターフロントの用地が存在していた。ここを開発するためのブーストとしてのオリンピックは、その効果はロンドンのストラットフォードには遠く及ばなくても、それなりの意味はあったとは思われる。しかし、それから4年以上経ち、もはや東京のウォーターフロントの活用もある程度、目処が立ち、また東京湾の放射能汚染のピークがまさに佳境を現在、迎えているような状況で、オリンピックでのインフラ投資をどのように正当化することができるのであろうか。

まあ、もはや決定したことをとやかく言うのも無駄なのだが、私はこのオリンピック、なぜ、大阪や福岡などで開催する方向で国が調整できなかったのか、きわめて残念に思う。大阪や福岡は、オリンピックというブーストが都市開発を促進させるうえでも必要であったろう。それは、東京より遙かに必要性が高い。今回は、経済破綻したマドリード、政情不安のあるイスタンブール、とライバルが勝手に転けてくれたからぼた餅的に東京が選ばれてしまった感がする。このような状況であったら、大阪はもちろん、福岡でも手を挙げていたら当選できたであろう。結果論かもしれないが、返す返す残念であるのと同時に、大阪という都市の時勢を読めない勘の悪さに苛立ちさえ覚える。どうでもいいが、大阪市がオリンピック候補に手を挙げていた時、大阪市にプロモーション関連の仕事の営業に行き、市の職員のやる気のなさというか他人ごと的な対応に驚いたことがある。私は大阪市こそ、オリンピックをやるのに日本でもっともふさわしく、意義がある都市であると捉えていたのであるが(今でもそう捉えている)、その肝心の大阪市が自分達のポテンシャルを過小評価している。なんで、東京ばかりが二回もオリンピックを開催するのか。日本はフランスやイギリスと違って、決して一極集中ではない。大阪市はリヨンやバーミンガムとは比較にならないほどの大都市であるし、日本はフランスやイギリスと比べれば人口が2倍近くもある大国家である。その国の第二の都市(人口でいえば横浜かもしれないが)が、オリンピックを開催していないことを恥じるべきぐらいであるのに、このようなチャンスを逸してしまって、もっと大阪市民は悔しがるべきであろう。ちなみに、メルボルン、バルセロナ、リオ・デジャネイロ、ロス・アンジェルス、ミュンヘン(旧西ドイツ時代でもハンブルクの方が大きい)といったその国の第二の都市がオリンピックを開催した事例は数多ある。

あと、前回、東京都の委員をしていたこともあったので、選考プロセスは多少、勉強したのであるが、それでもリオ・デジャネイロが選ばれたことには大いに驚いた。それと同時に、このオリンピックの開催場所を決定するIOC委員たちは、相当、頭が悪いことも露見された。そして、今回の東京に関しても同様の印象を覚える。要するにオリンピックを開催するだけの条件を客観的に優越を判断して選ぶというよりかは、プレゼンテーション・ゲームであり、都合が悪いことを隠して、適当に好印象を与えれば、委員たちは容易にだまされるということである。東京も冗談であるが、これは国民にとって冗談なのであって、おそらくオリンピック自体は適当に運営されるであろう。それに比べて、リオ・デジャネイロが冗談なのはブラジル国民にとってではなく、IOCにとって悪い冗談になるであろう。まあ、そういうこともしっかりと予見できないような人たちがオリンピック開催都市を決めるのである。

覆水盆に返らずではあるが、ヨーロッパの諸都市の都市開発を調べているものからすると、ハンブルクにしろ、ロンドンにしろ、バルセロナにしろ、オリンピックに候補として手を挙げる都市は、しっかりと都市戦略の手段としてオリンピックを位置づけている。北京が世界の注目を浴びて悔しいというような、犬も食わないような見栄で開催したがるような首長を選んでしまったことがすべての禍の始まりであったのかもしれないが、オリンピックは目的ではなく手段であることを人々があまりにも理解しなさ過ぎると思うのだ。それがとても残念で悲しいのである。オリンピックは悔しいとか嬉しいとかいった感情的な気持ちで開催するのではなく、将来を見据えた冷徹な戦略手段として開催をするものであるべきだ。なぜなら、オリンピックはアテネの例でもみられるように、小さい国であれば、国家財政を破綻させるほどの出費を強いるからである。せめて、東京ではなく、開発のニーズが高い大阪や福岡、状況によっては仙台などで開催してもらえればよかった。都市デザインが醜悪な名古屋も東京よりはインフラ投資をする価値はあったであろう。しかし、残念ながら東京にはそれだけの価値はない。東京には喫緊に解決しなくてはならないような、または長期的に解決するだけの過大なる都市問題がないのだ。あるとしたら、東京湾の放射能汚染問題であるが、これはオリンピックでの投資とは無関係である。

1964年、東京はオリンピックを契機に、首都高速道路や新幹線、青山通りや桜田通りなどを一気に整備し、また、駒沢公園や代々木公園などの緑地も創出させ、都市環境を一変させた。これによって、モータリゼーションにある程度は対応することを可能にし、グローバル都市としての条件を整えることに成功した。その後の経済成長を受け入れる器としての要件を満たすうえで、エポック・メーキングなイベントであり手段であったと捉えられる。つまり、先進国として必要な都市インフラを整備するための、きわめて効果的な手段としてオリンピックは機能したのである。これは、ソウル・オリンピック、バルセロナ・オリンピック、そして北京・オリンピックでもみられた効果である。しかし、2020年、ほぼ再開発をするブラウン・フィールドも開発し尽くした今、オリンピックを開催することで都市をどのように変貌させることができるのであろうか。

オリンピックの開催が決定された報に接し、私の学生たちは無邪気に喜んでいた。国民の借金が1000兆円を超えている国で、さらに借金が増え、おそらく間違いなく訪れるであろうオリンピック後のオリンピック不況を彼らは20代後半から30歳にかけて体験することになるであろう。それを考えると、同情するが、しかし経済学科で勉強しているのだから、そのぐらいの将来を予測する術を学んでもいいのではないかとも思ったりもする。オリンピックはプレゼントではない。それは、負債であることをもっとしっかりと理解すべきだ。その負債を将来の資産にするような都市戦略なくして、オリンピックが開催されることを消費者目線で喜んでいると、とんだ陥穽に落ちるであろう。

最後になるが、私はオリンピックというイベントはとても好きである。国対抗、というのはちょっと好きではないが、スポーツで世界中の人が競うというイベント自体はとても素晴らしいと思っている。ただし、都市経営的な観点が抜け落ちた場合、それは開催するのに値しないイベントとなると思っているだけである。そして、東京という都市はオリンピックを開催することを、都市戦略的に正当化できないと私は思うのだ。というか、どうして、こう日本という国は間違った方向へとどんどん進んでいってしまうのか。このブログを書いていても、悲しみしか残らない。
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