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日本人は日本訛りの英語をしゃべっていればいいのだ [英語関連]

 2008年8月26日、米女子プロゴルフ協会(LPGA)は、「来年から同ツアーに2年間在籍し英会話能力の評価が必要と判断された選手を対象に英語の口語テストを実施し、基準に達しない場合は出場停止とすることを決めた」とAP通信が伝えた。活躍が目立つ韓国出身の選手をターゲットとしたと言われるが、宮里藍などもその範疇に入るだろう。
 この馬鹿な提案はおもに選手らの激しい反発(皮肉にも韓国選手は好意的だったらしい)を招き、結果、うやむやになるのだが、その際、たとえば LPGAツアーのベテラン選手ローリー・ケーン(カナダ)が「私は日本でプレーする時、日本語を使わなかった」と述べたのは印象的であった。
 アメリカは人種や宗教で差別しないというのが表向きのスピリッツであるが、まあ相変わらずジャッキー・ロビンソンが大リーグ・デビューをした当時から人々の差別意識はまったく改善されていないんだなと思ったものである。
 
 さて、私がここで気になるのは「英会話能力」を課したという点である。最近、英語教育に関心を持ち始めている私は、またこのブログでも報告するが、留学希望のゼミ生に英語特訓口座をボランティアで開講している。英語だけでなく、語学を第二言語として習得する際には、リーディング、リスニング、ライティング、スピーキングと順を追ってその習得が難しくなる。すなわち、受け身の要素は習得が早く、自分の意志を先方に伝える技術の方が遅く習得する。母国語は違う。リスニングとスピーキングが先に来る。しかし、言語という論理体系が確立された後、違う言語を習得するうえでは、スピーキングから入っても混乱するだけだ。おそろしく記憶力がよければ、そのような学習法で対応できるかもしれないし、そのような能力を持っている人が語学の天才と言われるのかもしれないが、一般人がたとえば英会話から入って英語をマスターできるかと思っても大間違いである。というか、英語をマスターできないので、当然、英会話もマスターできず、英会話学校は永遠に儲けを捻出することができるのだ(まともにビジネスをやっていれば)。よく考えれば、語学をマスターせずに会話だけマスターできる訳がないのだが、それを多くの学生、少なくとも私が日々接している学生は理解をしていない。スピーキングは20歳以降だと実は致命的に難しくなるのは、ちょっと前までは20歳以降に来京した地方の人が、なかなか方言が抜けないことを思い起こせば理解できるであろう。

 日本人はたとえ喋れたとしても、日本人訛りの英語をしゃべる。これは、インド人がインド訛り、シンガポール人がシンガポール訛り、オーストラリア人がオーストラリア訛りをしゃべるのと同様であり、「マイ・フェア・レディ」の例を出すまでもなく会話というのはなかなか難しい。もちろん、今回は「口語テスト」ということで、とりあえず文法的に正しく喋れれば通してもらえるのかもしれないが、おそらく訛りはマイナスとなるであろう。というのは、本当に会話能力を評価するというのは難しいからである。まさに苛め的なアプローチで、アメリカ人の心の奥底に底流する底意地の悪さを感じ取ってしまう。

 日本人は日本語という世界でも希有な難しい言語を駆使しているのだから、英語のような表現力も稚拙な言葉なんてしゃべれなくても恥ずかしくない。むしろ、恥ずかしく思うべきは漢字が読めなかったり、書けなかったりすることである。英語に関しては、読めないことは恥ずかしいと思う。変なナンパ言葉を覚えるよりか、英語の本を読めることの方が重要である。そして、英語の本を読んでいれば、徐々に、英語脳が培われていく。英語脳が培われていくことで、リスニングができるようになり、そのうち、自分でその英語脳に基づく表現力も養われる。しかし、書くことやしゃべることは母国語でも難しいことからわかるように外国語でしゃべるというのは本当に道のりが長い。かの大前研一だって、英語で大学で講義をして、奥様も英語を母国語とする人だが、英語の発音はめちゃくちゃである。それで十分なのだ。日本語がしっかりとしているのだから。先方が発信することをしっかりと受信することがまず重要である。そして、まあ発信することもできるようになればいいが、これはハードルは本当に高い。英会話がぺらぺらとできるなんて、アメリカに5年間住んでも難しいと思うよ。というか、私の叔父はチェコ人でもうアメリカに40年は住んでいて、チェコの大学なんかでたまに講演とかもしたりするが、英語は変だからね。そうそう、できるものではない。

 だから、日本人は日本語訛りの英語をしゃべっていればいいのである。マクダナーじゃなくて、マクドナルドでいいのだ。しかし、私のゼミ生がポール・マッカートニーの歌をカバーして歌っていたのをユーチューブでアップしたら、「ブロークン・イングリッシュ」でださい!みたいなコメントを英語で書いてきた輩がいる。いいんだよ、ブロークン・イングリッシュのところがいいんだ。忌野清志郎の「デイ・ドリーム・ビリーバー」を聴いたことがないのか、と思っていたら、なんとこのコメントを書いた人が日本人であることを知った。何、こんなところでコンプレックスを持っているのだろうか。日本人は日本語が喋れるのだから、日本語訛りの英語でいいの。ちなみに、私はまったく自覚がないのだが、カリフォルニア訛りの英語らしい。そりゃ、カリフォルニアにしか住んでいないからね。だから、ニューイングランドのエスタブリッシュメントからすると田舎ものに聞こえるだろう。でも、いいじゃないか。別に日本語で書いて、日本語でコミュニケーションしているんだから。カリフォルニア英語だろうが、喋っているだけでプラスだよ、と思うのである。まあ、カリフォルニアはアメリカであるが、日本人だったら日本語訛りでいいのだ。インドにいくと、あの強烈なインド訛り(というか、デリー訛りかもしれないが)の中では自分の英語の方がおかしいと思う。要するに、言語というのはマジョリティがその場における正しさを決定するので、日本では日本語訛りの英語が正しいくらいの気合いを入れて、妙なアメリカかぶれにはしっかりと抵抗すべきだと思うのである。

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