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旧西ドイツを代表する縮小都市ゲルゼンキルフェンを訪問する [サステイナブルな問題]

ルール工業地帯にある縮小都市ゲルゼンキルフェンの都市計画担当者の話を聞き、中心市街地を歩く。ギルゼンキルフェンはルール地方でも最も人口減少が激しい自治体である。エッセンというルール中核都市の北に位置し、公共交通の幹線から外れているため、産業構造を変革させるような新たな産業がなかなか集積できないという状況や、ボーフム、エッセン、ドルトムントが大学を有し、そこから新たな産業の種がスピンオフをすることを期待しているのに対し、大学がないギルゼンキルフェンは将来のシナリオがなかなか描けない状況にあるからだ。ギルゼンキルフェン自体は人口は少なくないが、そもそも合併によって水増しされた人口なので、統計上の数字より都市力はがくっと小さくなるとも思われる。

さて、しかし、縮小にただ身を任せるのではなく、いろいろと足掻いている。サイエンス・パークを都心部に設けたこともそうだが、都心の公共空間の再整備なども図っている。都心の広場もなかなか魅力的な絵が描かれていて感心する。しかし、その魅力的なプランもさることながら、何より驚いたのは、広場の整備費用が1000万ユーロで済んでしまうということ。日本円で12億円ちょっとである。日本だったら一桁は違う。なんでこんなにドイツでは安いのであろうか。これがインドとか人件費が安い国であれば分かる。しかし、ドイツの人件費は日本より高いくらいだ。この違いは何なのであろうか。

おそらく大きな違いは、日本の場合、公共事業という市場経済を配慮にいれない事業に多くの人たちが安易な金を求めて群がってしまったために、その事業を遂行するための経費が肥大化してしまったからであろう。最近、中川昭一が亡くなったが、彼は選挙で敗れた後、「ここらへんの公共事業は全部、自分が持ってきたのに」と言っていたそうだ。これは別に彼や古賀誠、森元首相といった旧来の自民党議員だけではなく、小泉チルドレンの片山さつきでさえ、公共事業を地元に持ってきたという「成果」を選挙運動で主張していた。このように市場経済が及ばない事業を、政治家の辣腕で持ってきて、本来的には不要な公共事業を行う。当然、公共事業自体が必要な訳ではなく、それがもたらす仕事、雇用、お金が目当てなので、お金がかかる公共事業ほど有り難がられる。地方の道路が国際的に異常な高規格のトンネルや橋梁を多く持つ理由はここにある。これは、道路だけでなく、全般的に公共事業全体のインフラ化を推し進めたのではないだろうか。その結果、例えば、道路予算は国土が25倍あるアメリカと同程度にまで膨らんでしまっている。

アメリカが弁護士の利権を拡大させ、そのビジネス・マーケットを拡張させるために訴訟社会をつくりあげ、無駄な裁判に明け暮れるようになり、社会の資源を不適切に歪めて配分するようになってしまい(もうそれでも市場が飽和したので日本にも裁判員制度を導入しようとしている)、多くの市民が不利益を被っているのと同様に、日本は公共事業が肥大化して、多くの市民が不利益を被っている(これらは国民の税金が無駄に使われているので、我々と無関係ではない)。

こういうことは日本にいると感覚的には理解できはするが、実際、ドイツにてその公共事業の実態を垣間見ただけでも、日本の異常さが理解できる。まあ、こういう視座を獲得できるという点では、海外に住むと意味があることだと思われる。
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