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大牟田を訪れ、中心市街地と郊外ショッピングセンターのことを考える [都市デザイン]

 大牟田を訪れる。最盛期には20万人を越す人口を擁したが、現在は13万人まで減った縮小都市である。どのくらい悲惨な状況にあるのか、と観察をしにいったのだが、多くの産業基盤を有した活力のある都市であった。もちろん、最盛期に比べれば随分と寂しくなっているのだろうが、それでも例えば旧東ドイツの産業都市(シュベード、アイゼンヒュッテンシュタット、ホイヤスベルダ)に比べればずっとましであろう。人口規模的には同じのケムニッツなどと比べても元気なような気がする。これは、西鉄とJRという公共交通がしっかりと整備されており、それなりのサービスが提供されていること(西鉄の特急は30分に1本、JRの特急も40分に1本程度)、港があること、そして産業遺跡ともいうべき都市のアイデンティティを形成するべき要素が幾つかあること、などが理由であると思われる。
 とはいえ、中心市街地である新栄町にしろ、駅前の商店街にしろ、ここらへんは恐ろしく寂れている。西鉄とJRが走っているにも関わらず、もはや駅前はその都市の中心ではない。この都市の中心でなくなったにも関わらず、依然としてそこを都市の中心と考え、中心市街地活性化政策とかで税金を垂れ流しにしているのは困ったものである。大牟田はどの程度、垂れ流しにしているかは分からないが、今度、大牟田市には新しくつくられる高規格道路のインターチェンジ付近にイオンができる。市民はほとんどが大賛成だそうである。イオンをつくれば、そうでなくても寂れている中心市街地はさらに寂れる。本当に少ない顧客を相手の商売しかできなくなるであろう。少なくとも、駅前商店街が従来、得意にしていた買い回り品はほとんど壊滅する。それは、しかし市民という顧客のニーズを掴めなかったから、ある意味ではしょうがない。もちろん、このような商店街が駅前に集積していることは多くのメリットを供する。私の修士論文は、そのような商店街の外部経済を多角的に検証したものであるし、最近記したCity and Lifeにも、商店街の社会的価値に関して記している。
 しかし、そのように商店街の社会的重要性を認識している私でさえ、もう中心市街地を活性化するために、公的資金を投入してまでどうにかすることには大いなる疑問を抱くようになっている。そもそも、これら中心市街地の人達が商業を営みたいとどの程度強く思っているのか。後継者問題を抱えながら、中心市街地に血税を投入する必要があるのか。さらに、イオンや夢タウンなどの大規模ショッピングセンターを立地させて、それでも中心市街地を活性化させようとするのは、あまりにも八方美人過ぎるのではないか。そのような甲斐性のある自治体はほとんどない筈なのに、二重投資をしてしまう。
 イオンができたら、そこが街の中心になる。このことをもっと認識する必要があるだろう。イオンができたら、中心市街地はもはやその都市の中心ではない。元中心市街地となる。中心市街地に店舗を持っていて、さらに商売を続けたい人は、イオンにテナントを出すよう頑張るべきだし、それが難しければイオンのそばに店を出すべきであろう。今までは中心市街地に店があったのかもしれないが、もうそこは中心ではなくなったので店を動かすべきだ。それが嫌なら、まあトゥーバッドである。駅や中心という外部経済の恩恵を受けてきたが、その恩恵がなくなったからと言って補償されようと考えることもおかしいかもしれない。中心市街地と郊外の大規模ショッピングセンターとはゼロサムゲームである。パイは同じなのだから、郊外のショッピングセンターに大きく取られたら、自分の取り分は少なくなるのは当たり前である。下手に頑張って、さらに傷口を広げることもなかろう。
 こんなことを、商店街を愛する私が言うことになるとは思わなかった。しかし、多くの地方都市はそのような選択をしている。もちろん、東京の江東区の砂町銀座のように栄えている商店街のマーケットを分捕りにショッピングセンターが高圧的に進出してくるケースもあるが、多くの場合は消費者として人々がショッピングセンターを欲している。消費者が欲していなくて、後継者もいないような商店街になぜ、お金を投資するのか。それは、多くの商店が地主でもあるため、そのような投資が不動産価値を上げるので賛成するからである。こんなことをして日本はどこへ行くのであろうか。
 ちょっと大牟田と関係性が低い一般論を述べてしまったが、まあ大牟田もどこが消費の中心かは分からない状況になっている。しかし、よく考えればアメリカの都市もこんな構造である。アメリカの多くの都市は公共交通がほとんど機能していないので、大牟田のように公共交通が充実している都市で、このようなスプロールを展開させるのはもったいないが、まあ都市計画的構想力が弱かったのか、致し方ない事態を招いている。致し方ないといえば、新幹線の新駅は大牟田からも鹿児島本線からも離れた山里のようなところにぽつんとできるらしい。これは本当にもったいない。いろいろと難しい問題があったのだろうが、せっかく中心市街地が空いているのだし、是非とも大牟田駅と接続して欲しかった。これは、今後50年、100年と大牟田の行く末を左右する計画的判断である。この新幹線の開通によってつばめはおそらく廃止になるであろう。大牟田と熊本間のアクセスはぐっと悪くなる。新幹線が大牟田に与えるメリットに比して、つばめが廃止になるデメリットの方がずっと大きいのではないか。不幸中の幸いなのは、大牟田は西鉄が走っていることである。西鉄がなければ、そのダメージは相当、強烈なものになったと思われる。
 私が都市を分析する視点は、極めて冷徹で薄情である。しかし、そこの都市には生活をしている生身の人々がいる。新幹線の駅を例え間違って山中につくったり、中心市街地をつぶすようなショッピングセンターを高速道路のインターチェンジ付近につくったりするような政策的ミスをしてしまっても、この生身の人達の生活空間をしっかりと守っていかなくてはいけない。しかし、夕張もそうだが、政治家と役所が判断ミスをして、取り返しのない状況をつくりすぎていることが多すぎる。


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