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シンセミア [書評]

阿部和重の長編小説「シンセミア」を読んだ。1週間ほど前に「週間スパ!」の取材を受けた。編集者に「先生、シンセミア読みましたか」と言われたのだが、読んでいないので読んでいないと答えると、編集者が「それは外してますねえ」と言葉にはせずとも、言外にそういう意図を伝えていようとしたのが察せられて、私も、これは外しているかもしれないと思い、ヨーロッパに行く直前に土産と一緒に八重洲の大丸で全巻4冊を購入したのである。そして、フランクフルト便の飛行機で読み始めたのだが、これが相当面白い。以前、インディビデュアル・プロジェクションを読み、面白くないなあ、と即古本屋に売ったこともあり、阿部和重のイメージはいいものではなかったのだが、シンセミアは相当面白く、小説の世界にぐんぐんと引き込まれる。そして、このシンセミアの内容は私の研究テーマにも示唆的であるのだ。確かに読んでいないことは大外しであった。この小説は、山形県の神町という場所が舞台なのであるが、まさに地方の溶解化現象ゆえにおきえた事件がこの小説では展開していき、長編小説ではあるがあっという間に読んでしまった。まず、出だしが素晴らしい。NHKの「食卓のかげの星条旗」がいきなりエピグラフとして出てくる。いかに我々の食事がアメリカ政府の策略で米食からパン食にと変えられていったか、そしてその過程で地方都市の勢力図なども変遷していき、それが現在の地方の溶解化現象への潮流をつくりだした、と読者の想像力を飛翔させる手助けをするような事実の紹介は、我々をシンセミアというか神町の世界に引き込むのに極めて効果的である。

シンセミアの話は、一見、荒唐無稽とも捉えられる。というか、捉えたいという気持ちを抱きたい自分がいる。しかし、これら神町の住民のような変態、紙一重の人は、この世にわんさかいるのである。それが顕在化した時、我々はニュース等で知り、驚愕する。ロリコンの警察官、コカイン中毒の主婦、暴力を振り回すパン屋、産業廃棄物施設を立地させるために暗躍する市議会議員、盗撮好きのレンタルビデオ屋・・・。そんな人達はこの世にたくさんいる筈である。しかし、それが神町といった山形県の「果樹天国」といった、情報ネットワークや盗撮機材などの高技術には恵まれていても、極めて閉塞的な田舎コミュニティに集積すると、とてつもないことが起きるということは、何も小説の中の話ではなく、現実でもある。篠田淳とかいう中学生の不良は、岐阜県中津川で、女子中学生をパチンコの空き店舗で殺した中学生と私のイメージの中では非常にダブルのである。田宮和歌子のような女性は、私的には直接親しい人ではいないが、友人の知り合いレベルであればたくさんいる。彼女などは、ばらばら殺人のカオリンに比べれば、はるかにましで人間的で普通である。しかし、神町というセッティングでは、恐ろしいものを見てしまったという印象を我々読者に与えるのである。危ないといえば、広川妙子は、本当に危ないが、結構、私が知らないだけで、犯罪を幇助する女性などは、あのような圧力とかに屈してしまっただけなのかもしれない。盗撮なんかも、私に来る悪戯メイルの多くが盗撮画像をゲットみたいなものであることから、その方面のマニアが多く、マーケット規模もそこそこあるのではないかと思われる。というか、植草先生なんかでさえしているんだからね!植草さんが大学の先生にならずに、山形の神町でレンタルビデオ屋をしていたら、そういうことをしちゃうでしょう。大学の先生で、マスコミでも売れっ子になっていてもやめられないんだから。

こういう風に考えると、都会ではなく、日常生活の刺激があまりない地方都市においては、盗撮とかは相当な刺激であることも推察される。ギャンブルや性的に異常な行為なども、相当刺激があるのだろう。それらは、まさに麻薬である。地方都市の退屈とやりきれなさを刹那的にでも忘れさせてくれる。常識的な人々が、何も気づかないで生活している世界は、そのようなアングラ的な世界と非常に薄い板で隔たれているに過ぎない。しかし、この薄くても不透明な板で覆われているならいいのだが、このアングラな世界が首をもたげて正体を出そうとしているのが地方都市の危機であり、それがちょっとしたバランスを失うだけで、例えばロリコン警官中山の小さな誤解(佐藤百合の父親が家庭内暴力をしているという誤解)みたいなものをきっかけとして、その共同体は大きく崩壊していくのである。この小説を読むと、太田市の中心市街地の風俗化現象なども極めて理解しやすい。あそこで、なぜ風俗店が多く立地することに我々が抵抗を覚えるのか。それは、別にそのようなものが昔から存在していることは分かっていて、薄い板でもってそれを敢えて無視をしていたにも関わらず、堂々と、表通りに立地してきてしまったことにある。もはや、無視をしたくても無視できない。あたかも、下半身に何も衣服をしていない露出狂のような都市景観、しかもそれが堂々と都心の真ん中にあることに、我々は文明人として当然の条件反射的違和感を覚えるのである。別にズボンをしていて隠していても、そこにあるものがあることは分かっているのだ。しかし、それを見せる、見せないでは大きな差がある。太田市はその一線を大きく踏み越えてしまったのである。それは、ペニスケースさえするという文明レベルにも到達していないレベルまで逆戻りしたプリミティブな状態である。

それでは、阿部和重における神町において、人々を狂気に向かわせたもの、大団円の崩壊に向かわせたもの。その変化、きっかけは何だったのだろうか。それは、小さな社会の変化による個々の人々の変化であろう。太田市も神町も米軍基地があったという同じ背景を共有していることは興味深い。しかし、神町は太田市のようなあからさまな現象の変容はみえない。せいぜい、パン屋が権力を持つようになったことや、中心市街地が郊外店にやられて衰退していったことくらいだが、これは全日本的にみられた現象であろう。しかし、確実に人々の価値観や共同体意識は変化している。そして、ギャンブルや性、麻薬的快楽に人々のエネルギーが集中していっていることが分かる。これを、ただ紋切り型に堕落として、片付けることができるのであろうか。人口も縮小し、経済も停滞し、といって大人しく地味な生活を続けることをあたかも愚かであると刺激する宣伝広告、マスメディアの挑発(人生をもっと有意義に過ごそう、あなたはもっと輝くべきだ、あなたには幸せになる権利がある、美味しい生活を目指せ等)を集中豪雨のように浴びせ続けられている地方において、どのような人生目標を設定できるのであろうか。さらに、小さいながら、というか小さいからこそ強烈な共同体意識を強要される。それは、犯罪組織という共同体の様相を帯び始めると、もはや出口もない暴力的に閉塞されたものとなる。それは、加害者も被害者も死ぬことでしか抜け出せないような閉塞である。

私ごとだが、大学生の時、山形のスキー場でアルバイトを冬休みと春休み中していたことがある。同僚はほとんど、山形の農家の人達であったが、年輩の人を除けば、山形の農家の10代、20代の同僚達は、東京ものの私を徹底的に排除し、苛めた。まあ苛めたといっても、もう既に大学生であるから、無視されるとか、指示をわざと教えないとか、聞こえるように悪口を言うとか大したことではないし、残酷なものでもない。もちろん、私があまり友人になりたいような愛想のよいタイプには見えなかったのかもしれないが、私はシンセミアを読んで、彼らを思い出したのである。そして、確かに彼らの小さな共同体組織の中で生活することになったら、相当、やばいだろうな、と学生当時、感じたことを改めて思い出したのである。絶対、あのような人達とは生活したくない、と強く思った。それは、共同体から異物を徹底的に排除するという攻撃性と陰湿さが堪え難いと思ったからである。田宮博徳が盗撮サークルを抜け出す時の大変さは、まさに暴力団を辞めるような大変さであり、しかも結局、それが原因で殺されてしまうのだが、もう絶対抜け出したいというような村社会の嫌らしさが、多く神町など地方都市には残っているのであろう。そして、そのような村社会的な価値観に、消費社会的な価値観、さらに地方経済の衰退、人口の縮減といったマクロな影響が重なる時、そこには大きな崩壊が待っている。崩壊とはいっても、実際は、神町の小学生が噂をしていた「どろどろお化け」の如く、徐々に溶解していくのであるのだが。

神町というところは実在している。もちろん、この小説はフィクションである。しかし、神町という場所がなければ、この小説は出来なかったであろう。それは、阿部和重という媒介が、神町の持っているおどろおどろしさ、危なさを感知して、それを我々に小説という形で提示したからである。そういう意味で、この作品における作家は、創造者ではなくて、媒介物であると思われる。しかし、こういう形で地方都市を舞台とした小説が出てくるのは、いいことである。ファスト風土といった現象が、小説という作品としてまとめられると、より臨場感溢れて、危機感を持って発現される。この小説の背景、舞台は、まさに我々が今、生活している現在とシンクロしているのである。戦慄すべき世の中が我々とパラレルに存在していることを、しっかりと自覚しておくことが必要である。そして、シンセミアを通してみると太田市の問題の輪郭がより明瞭となってくる。というのは、売春のようなアンダーグランドのものを堂々と、表舞台の中心市街地に持ってくるということは、殺人を含めた暴力のようなタブーを犯すことへの抵抗を少なくさせるということに繋がることを理解させるからである。神町の呪われた歴史に加えて、単なる盗撮グループのサークル活動が神町に大きな崩壊をもたらしたのは、そういうことを示唆している。太田市の犯罪件数が群馬の他の自治体より多いことは、太田市の風俗化と相関関係がある筈なのでる。我々は、覚悟と分析力、そして知恵が求められているのだ。

それにしても、このシンセミアの登場人物は大方、多少は道を踏み外しても、世が世なら人生を全うできた人がほとんどである中、本当の悪人も存在していた。それは、何を隠そう、金森年男で、作者がなぜ、彼だけ生き残したかは、彼さえ生きている限り、まだまだ神町には呪われた事件が引き続き起きる可能性があるからで、話のネタに困らないからだ。彼が死ななかったことで、読者はあれだけ登場人物が多く死んでしまってもまったく油断ができない。見事なストーリーテラーである。危ない登場人物ばかり出てくるところは、ツインピークスを彷彿させるが、オカルトに頼らないため、はるかに面白い。そして、オカルトではないために、はるかに恐ろしいのである。



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